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礼拝メッセージより
重い皮膚病
今日の箇所の小見出しは「重い皮膚病を患っている人をいやす」となっているようだけれど、僕の持っている聖書では「重い皮膚病を患っている人をいやす」となっている。
重い皮膚病は今ではハンセン病というそうだけれど、今日の箇所の病気はハンセン病とは違うんじゃないかと考えられているそうだ。どういう病気なのかはっきりしないけれど、伝染すると考えられていて、一目でそれと分かるような皮膚の病気ということなんだろうと思う。
そして旧約聖書のレビ記13-14章にはそんな皮膚病についてどうすべきかということが書かれている。
レビ記13:45 「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、
口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」
他の人に病気を移さないためということなんだろうけれど、病気でない人々とは別世界で生きていた。汚れた者として清い世界とは別の世界に生きていた。そこには越えがたいへだたりがあった。
だからその皮膚病が治った時も、それを祭司が調べ、治っていたら清めの儀式をしなければならない。そのへんのことがレビ記14章に事細かく書かれている。イエスが44節で「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と言ったのはこのことのようだ。
清める
そんな重い皮膚病の人がイエスのところに来て「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったというのだ。
なんだかちょっと不思議な言い回しだ。普通なら清くして下さいと言うんじゃないのかな。おできになりますってどういう気持ちなんだろうか。
それと、癒すことができるではなくて清くすることができると言うのも不思議な感じがする。どうやらこの病気というのは、病気自体の苦しみだけではなくて、それ以上に汚れた者とされる苦しみ、その事によって社会から疎外されてしまうという苦しみが大きい、そんな病気なんだろうなと思う。だからこそ清くすることがおできになりますと言ったんだろうなと思う。
41節ではイエスが深く憐れんで手を差し伸べて手を触れて、よろしい清くなれと言うと重い皮膚病が去って清くなったと書かれている。
この「深く憐れんで」という言葉は、「怒りに満ちて」と書いてある写本があるそうだ。案外もともとはそっちの方だったんじゃないかという気もする。怒りに満ちるなんてのは優しイエスさまにはふさわしくないと思った人が深く憐れんでに変えたんじゃないか、なんて邪推している。
そもそも深く憐れんでという言葉は、内臓という言葉をもとにしていて、内臓が揺り動かされるような憐れみということだそうだ。腸が煮えくりかえるような思いということかなと思う。そうすると病気で苦しんでいることに対する思いと同時に、それ以上に差別され疎外されていることに対する憐れみと、差別している体制と差別している人に対する怒りがあるんじゃないかなと思う。
つまり怒りはこの人を「汚れたもの」として差別し社会から疎外していることに対する怒りなのではないかと思う。また自分たちは清い、こいつらは汚れていると言って、自分たちとそれ以外の者との間にへだてを作っているすべての者に対する怒りではないか。
そしてその怒りが同時に差別されている者、見捨てられている者、ひとりで苦しんでいる者への深い憐れみとなっていったのではないかという気がする。
触れる
そんな憐れみからイエスは手を差し伸べてその人に触れたのだろう。病気が移ると考えられていた人に触れるなんてのは当時としては有り得ないことだっただろうけれど、イエスの方から手を差し出して彼にさわった。触るには同じ高さにいないとさわれない。高いところにいたのではさわれない。
手を触れることのできる所にイエスは立っている。すぐそばに立っている。そして手を伸ばしてくれている。イエスは別世界にいない。重い皮膚病を患って苦しみ、差別され、のけものにされ、邪魔者あつかいされているその人のすぐ隣へ来られた。
イエスの憐れみとは「わたしは汚れている」と自分から言わなければならない、その人の悲しみを自分の悲しみとすることだろう。その人の苦しみを自分の苦しみとすることだろう。この人に触れることで病気は伝染しなかったけれど、触れることで悲しみと苦しみは伝染したかのようだ。実はそのことでこの人の病気が癒され、魂も癒されたのではないか。と言うのは言い過ぎかな?
差別
しかし差別というのは今でもずっと残っている。
もうだいぶ前だけれど、エイズに関する記録映画をテレビで見たことがある。アメリカでの話だったけれど、エイズが流行する前に、科学者が大変な病気だからもっとしっかり研究しなればならないと言って研究費を要請したことがあった。なのにその時の確かレーガン大統領だったと思うけれど、大統領がそれを認めなかった。どうして認めなかったのかというと、そのころエイズになるのは同性愛の人が多かったからだった。そんな人が罹る病気のために研究費なんか出す必要はないといった雰囲気が国中にあったそうだ。それこそ神の裁きだというような考えを持つ人もいたそうだ。その頃にもっと真剣にエイズのことに取り組んでいれば、その後の大流行することはなかっただろうと言っていた。
今日本の国会ではLGBT法案が問題になっている。「差別は許されない」という言葉を入れるとか入れないという話しになっていて、入れない方向に向かっているそうだ。
今の社会って少数者に対してよってたかっていじめる傾向があるように思う。普通でない人に対する仕打ちはすさまじいものがある。自分たちと違う者を村八分にするのが得意だ。なにがなんでも同じにしないと気が済まない、許さない、そんな空気が日本にもいっぱいある。それに少しでもはみ出したら、なんとかして同じにさせようとする、普通にさせようとする、そしてそうできない者をつまはじきしてしまう空気があるように思う。
インターネットにこんな話しが載っていた。
子供をインター(インターナショナルスクール?)に入れて、思ったこと
日本の学校「差別はいけません。みんな同じ人間なのです」
インター「差別はいけません。みんな違う人間なのです」
同じこと言うのにアプローチが全然違う
みんなと同じにしていることで安心して、違うと不安になるような面がある。そして違う人間をおかしな奴だとか変な奴だと思い差別してしまう。
困ったことにそんな気持ちが自分の中にもあるということだ。差別はいけないということは理解しているつもりでいるけれど、差別する気持ち、変な目で見てしまう習性、どうしても受け入れられないというような思い、そんな気持ちが自分にもある。そんな気持ちとどう折り合いを付けていけばいいのかと思うばかりだ。
イエスは差別されている人たち、除け者にされている人たち、小さく弱い人たちの味方となり、そんな人たちの側に立っていたようだ。腸が煮えくりかえるような思いで、人を人として大事にしないその差別と立ち向かい、同じ熱量で苦しみ悲しんでいる人たちを憐れんでいたようだ。
イエスに従うとはそんなイエスと共に歩むことなんだろうと思う。私たちはイエスに従っているのだろうか。怒ることも憐れむこともなくしてしまっているのではないだろうか。