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礼拝メッセージより
ペンテコステ
人生にはいろいろと面倒なことが起こる。願わないことも起こる。うまくいかないこともある。あまりに大変なことが起こると、なにもかも捨てて逃げ出したくなってしまう。
福音書によると弟子たちはイエスが捕まってからみんな逃げてしまった、と書いてある。自分たちの師匠が捕まってしまってどうしようもなくなっていた。自分の生活も捨て人生をかけてついてきたのに、その師匠がこともあろうに十字架につけられて犯罪人のように殺されてしまった。弟子たちは世間から隠れて、行き場もなくさまよっていたに違いない。
ペトロも、おまえはあいつらの仲間だろうと言われて、そんな人は知らないと言ったことが書かれている。ところがペンテコステのこの日、ペテロは別人のように堂々と立派な説教をしたという。
ペンテコステとは50という意味のギリシャ語だそうだ。五旬祭。50日目。過ぎ越しの祭りから、つまりイエスが十字架につけられ、復活してから50日目。ユダヤ人にとっては麦の収穫を祝うお祭りであった。
その日弟子たちに不思議なことが起こった。聖霊がやってきて、みんなが突然外国の言葉をしゃべりだした。とにかく弟子たちがイエスの証人となり証言を始めた。その証言の中身がみんながびっくりするようなものだったということだ。弟子たちが知らないはずの言葉で、「神の偉大な業」(11節)を語った。それを聞いてみんなびっくりしてしまった。
人生に挫折して、ほとんど死に掛けているような弟子たちを再び立ち上がらせた、それこそが聖霊の助けなのだろう。聖霊が彼らの心の中に働きかけて、彼らの力を引き出させたということのようだ。死の縁にある人間を生き返らせる力を聖霊は与えられたということだ。
愛
この日、弟子たちはいろんな国の言葉で話すという不思議な出来事が起こった。そういうのを見ると、この日の弟子たちのように自分も外国語を話せたり、神の偉大な業を話せたり、誰もが驚くような不思議なことができたらいいなと思う。そんな普通ではできないこと、みんなを驚かせるようなすごいことができることこそが聖霊の働きなのかなという気にもなる。
でも聖書の他の所を見ると、誰をもびっくりさせる不思議なことが起こすことが聖霊の一番の働きというわけではないらしい。聖書には、ペンテコステの弟子たちのように外国語を話したり、あるいは意味のわからない言葉を話したりという異言といわれるもののことについても書かれている。
コリントの信徒への手紙一14章2節「異言を語っている者は人にではなく、神に向かって語っています。それは誰にも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。」14章19節にも「しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。」
この手紙を書いたパウロは自分では異言を語るみたいだけれども、教会では異言を語るよりも理性によって、つまり相手にわかる言葉を語る方をとる、と言っている。
そして同じコリントの信徒への手紙一12章3節では、「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」
神がいることが分かる、イエスが救い主であると分かる、それは聖霊の働きであるということになる。
神のことを私たちは聖霊によって分からせてもらっている、というのだ。必死に勉強したら分かるとか、一所懸命に修行したら分かるとかいうことではない。ただ聖霊によって、つまり神が働きかけてくださることによって分かるというのだ。
何で神さまがいるなんて信じてるのか、それは聖霊がそうしたから、と聖書に書いている。聖霊とは神さまの霊、キリストの霊、あるいは神の力、霊として私たちの中に働く神、といってもいいと思うけれども、要するに神さま自身が僕らにわかるようにさせてくれたから、神さまがいることも分かるし、神さまのことを信じることができると言うことらしい。そしてそれは聖霊の大切な働きのようだ。
またガラテヤの使徒への手紙5章22-23節では「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」と言っている。
どうも異言で話させることが聖霊の一番の仕事ではないらしい。
何かとんでもないすごいことができればうれしい、人に出来ないことが自分だけ出来るようなればいいなと思う。空中に浮くとか、誰にもできないようなことが出来るようになれば自慢できる。でも聖霊は、神の霊はそんなことをさせて人の注目を集めさえようとはしていないみたいだ。人がびっくりするようなことをする力も聖霊にはあるのかもしれないけれど、でもさっきの霊の結ぶ実を見ると、みんなをあっと言わせるようなものは何もない。しかも一番に愛がある。愛するようになることが聖霊の一番の働きであるらしいし、教会が一番目指す所なのだろう。何かよく分からない不思議な出来事を起こすことが聖霊の働きというよりも、相手に分かる言葉を発すること、神のことを分かるようにすること、イエス・キリストを信じるように導くこと、それこそが聖霊の働きのようだ。
と言いつつ聖霊とは何なのか、未だによく分からない。
今日の箇所では、激しい風が吹いているような音が聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまったと書かれている。
イエスがバプテスマを受けた時には、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきたと書かれている。
この霊という言葉と、風、息という言葉はみんな同じ言葉だそうだ。どれも目には見えないものだ。見えないけれど風のように吹いてくる神の息というイメージかな。
聖霊とは神の力、神の熱じゃないのかなという気がしている。私たちを力付ける神の力、私たちをホッとさせ暖かくする神の熱みたいなものなんじゃないかなという気がしている。
そしてこの聖霊はイエスの言葉を通してやってくるんじゃないかという気がしている。お前はよいことをしてくれた、お前はすばらしい、そのままのお前が大切だ、そんなイエスの言葉を通して聖霊が、神の力、神の熱が私たちの中に入ってくるように思う。
誕生日
ペンテコステは教会の誕生日だ、と言われる。聖霊によって、弟子たちがまわりに向かって証言を始めた日が教会の誕生日だということのようだ。神がいつも私たちと共にいるということは、聖霊がいつも私たちと共に働いているということでもある。聖霊が働いている、ということはそこに愛があり、喜びがあり、平和と寛容と親切と善意と誠実と柔和と節制があるということだ。
喜び
13節では弟子たちが新しいぶどう酒に酔っているのだとあざける者もいたなんてことも書かれている。
弟子たちは周りの者から酒を飲んでいると思われるほどだったということらしい。それほど楽しそうだったのだろう。酒を飲んで陽気になるほどに喜んでいたということなのだろう。それもまた聖霊の働きでもあるのだろう。初めてのキリスト教会はそれほど魅力的だったのだろう。そしてそれは神の言葉を聞くことを通して、そこで働く聖霊によってそうされていたのだろう。
聖霊の力によって神を知るということ、神を信じるということは、喜び楽しいことなんだ。だからこそ、そこから教会ができてきたのだろう。
そしてこの日始まった教会の働きが今の私たちの教会へと繋がっている。イエスを証言するという働きが私たちにも受け継がれている。
挫折して失望して、お先真っ暗だった弟子たちは聖霊によって力づけられイエスの証人となっていった。私たちも挫折し失望しお先真っ暗になるかもしれない。今まさにそうかもしれない。しかし弟子たちがそこから聖霊によって力づけられ、イエスを証言する者とされていったように、私たちもその同じ聖霊によって、神の力によってイエスを信じる者とされ、イエスを証言する者とされているのではないか。