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礼拝メッセージより
満ちた
イエスは洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。それは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というものだった。これがイエスの教えの総括、エッセンスだ。
イエスは時は満ちたと言った。バプテスマのヨハネは「やがて神の定められたその時が来るであろう」と語ったが、イエスはその時が来たと語る。そしてその時とは神の国がやってくる時だ。
神の国とはもともと神の支配ということであった。特に終わりのときの神の支配のことだそうだ。新しい形での神の支配が始まったということだ。
新しい神の支配とは何か。バプテスマのヨハネは神の支配を神の裁きと考えた。ルカによる福音書3:7-8には「まむしの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と言って、神の裁きからのがれるために悔い改めを迫った。
悔い改めにふさわしい実とは、具体的にはルカによる福音書3:11-14でヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と語っている。徴税人もバプテスマを受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。』とある。
悔い改め
イエスも同じように「悔い改めよ」と言う。しかしイエスは「悔い改めて福音を信ぜよ」と言う。ヨハネは悔い改めて善い行いをしなさいと言った。しかしイエスは悔い改めて福音を信じなさいと言う。心の向きを変えて、そして福音つまり神さまからの良い知らせを信じなさいと言うのだ。
福音とは、良い知らせとは何か。それは、繰り返し繰り返し罪を犯してしまう、絶望しかないわたしを決定的に救ってくださるという新しい時がやってきたというニュース。
何か、自分がよい人間になり善い行いをすることで救われるというのではない。そうではなく方向を転換して、神がイエスによってして下さったことを見なさい、イエスに神を見なさいと聖書は告げている。イエス・キリストは私たちといつも共にいてくれる、どこまでも味方でいてくれる、徹底的に肯定してくれる、神はそのような救い主を私たちのために遣わしてくださった。これが福音だ。
「悔い改め」とは、この福音に対して、全身全霊をもって立ち向かうことだ。イエスの方を向くこと、イエスを見ること、イエスに従うこと、全てをイエスにかけることだ。
単なる罪の懺悔ではない。悔い改めというと、悔いるという文字からも一所懸命反省し神に謝ることのような気もする。私が悪うございました、私は罪を犯しました、私は本当に駄目な人間です、ごめんなさい、すいませんということが悔い改めの字にふさわしいようにも思う。
しかし聖書の言う悔い改めとは、イエスの方を見つめ、イエスに従うこと、ただイエスのあとについていくことだ。イエスについていかないならば、いくら自分のことを悔やんでも、謝っても、それは聖書の言う悔い改めではない。
イエスは私たちの悪いところをいちいち指摘して、ここがだめだ、これもだめだ、さあ謝れ、なんてことは言わなかった。イエスは人に謝ってもらうためにきたのでもない。イエスは自分についてくるように、と言われた。イエスは自分に従ってくることを望んでいる。そしてそのことこそが聖書の語る悔い改めなのだと思う。
日常
イエスはガリラヤで宣教を始めた。ガリラヤはユダヤから見ると北に位置する辺境の地だ。だれもが気にもかけない、見捨てられている所、言わば片隅だ。イエスはその辺境で宣教を始めた。そしてだれも気に留めない、そんな人間に声を掛けた。
イエスはまず漁師に声を掛けた。すると彼らはすぐに従った。シモンとアンデレは漁をしているとき、ヤコブとヨハネは舟で網の手入れをしているときだった。そんな時にイエスは突然語りかけたようだ。普段の生活をしている時に語りかけた。そして日常生活をしているその場所で語りかけが。
4人が特別に信仰心があったというわけでもないだろう。学があったわけでもないだろう。特別ななにかが4人にあったわけではないだろう。また声を掛けたのは聖書を読んでいるとか祈っているとか、宗教的なことをしている時ではなく、普段の生活をしている時、しかも仕事の最中に声を掛けた。
当時漁師は取税人のように軽蔑されていたそうだ。そんな漁師がイエスの最初の弟子になった。みんながのけものにしているような者をイエスは弟子にした。でもそんなことはイエスの弟子になるための障害ではなかった。むしろイエスはそんな人間をわざわざ選んでいるようだ。何も自慢するものを持っていないような、何もできないようなものをわざわざ選んでいる。そんなのを集めてもどうしようもないだろうというような者を真先に選んでいるかのようだ。
そんな仕方で私たちも呼ばれたのだと思う。私たちがふさわしいからとか、それなりのすぐれた何かがあるからではない。全くなんにもない私たちに、イエスはわたしについてきなさいと声を掛けられるのだ。イエスのような人間が会社の人事部にいたら、その会社はすぐにつぶれてしまうんじゃないかと思う。
捨てる
4人の漁師は網を捨てて、また舟を残してすぐに従ったと書いてある。漁師にとって舟と網とは仕事道具だ。しかし彼らはそんな自分達の生活の基盤を捨ててまでも従ったということだ。
マルコによる福音書8:34には「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というイエスの言葉がある。自分を捨てるとは、自分中心であることを捨てる、自分のことしか考えないエゴを捨てること、私は私は、という気持ちを捨てるということかなと思う。
自分は立派だ、自分は偉い、自分は信仰深い、そう自慢する思いを捨てなさいということかなと思う。あるいは逆に自分は立派じゃない、自分は偉くない、自分は信仰深くない、そんな風に自分は駄目だという思いも捨てなさいと言われているのかなと思う。
人間をとる
そして弟子たちに声をかけ招いた目的は、彼らを人間をとる漁師にするためだった。魚をとっていた漁師を人間をとる漁師にするというのだ。
ということは、イエスが私たちを招いてくれているのも、人間をとる漁師となるためでもあるということなのだろう。それはイエスの福音を伝えて行く、イエスの招きを伝えて行くということだろう。私たちはそのためにもイエスに声を掛けられているのだ。
偉そうなこと言ってるけれど、最近は伝道なんてどうせ出来ないと勝手にあきらめていたというか、どうせ何をやっても誰も来てくれないと決め付けて何もしないで、何ができるか考えることすらしてなかったなあと思う。
福音を伝えるために何をすればいいか、何ができるのか、またそのために教会をどうすればいいのか、どんな教会にすればいいのか、それを考えることは実はとてもワクワクすることなんだろうと思う。その結果がどうなるのかは神様に任せるとして、兎に角自分達にできることを精一杯果たしていきたいと思う。人間をとる漁師とするために私たちも招かれていると思うからだ。そしてそれがイエスについていくということでもあると思うからだ。
私たちに何ができるのか、何をすればいいのか、祈りつつ一緒に考えていきましょう。そして実行していきましょう。