【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
誘惑
イエスは洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたあと、荒れ野で40日間サタンから誘惑されたと書いてある。
そのことはマタイによる福音書にもルカによる福音書にも書かれていて、その二つの福音書ではどんな誘惑だったのか詳しく書いてある。
マタイによる福音書によると、40日間断食して空腹になった時に「神の子なら石がパンになるように命じたらどうだ。」と言われたが、そのとき「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と答えている。
次に悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ。天使たちに命じたらあなたを支えると書いてあるじゃないかと言った。その時イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』」とも書いてある」と答えた。
次に悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行って世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、「ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。するとイエスは「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言ったと書いてある。
イエスの答えはみんな旧約聖書の申命記にある言葉だそうだ。
ルカによる福音書にも、順番が変わっているけれど、だいたい同じ内容のことが書いてある。ところが、福音書の中で一番古いマルコによる福音書は、荒れ野の試みにあったというところはわずかに2節。えらくあっさりとしか書いていない。
荒れ野
荒れ野とは、何もないところ、大きな岩がごろごろ、草木もほとんどない、言わば命のない所。イスラエルには町の郊外に出るとすぐに荒れ野があったそうだけれど、その荒れ野とは、神から最も遠い所の象徴でもあったそうだ。そして神に敵対する勢力の住むところ、サタンとか悪魔と言われるもののいるところ、神の力が最も及ばないところと考えられていたようだ。そんな荒れ野に霊が、つまり神自らがイエスを送り出したと書いている。
共感
しかしなぜイエスはサタンの誘惑に会わなければならなかったのか。イエスが神であるなら、神の子であるなら、神らしく高いところで威張っていれば良かったのではなかったのか。
その答えになるようなことがヘブライ人への手紙4:14-16に書かれている。「さて、私たちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵にあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵のみ座に近づこうではありませんか。」
イエスがサタンの誘惑に遭われたのは、弱い私たちに気持ちを知るため、私たちと同じ立場に立つため、同じ苦しみを味わうため、同じ辛さを経験するため、私たちと同じ弱さを経験するためだったと言っているようだ。
苦しさや辛さってのは同じような経験をしないとなかなか分からない。
以前ある人の辛い過去の話しを聞いたときに、分かる分かるなんて言いつつ聞いたことがあった。するとその人が、牧師さんには僕の苦しさは分からないでしょうと言われたことがあった。
僕も昔かつての登校拒否時代に引きこもっていた時のしんどい思いを話していたときに、簡単に相づちを打たれたことがあって、こんなにしんどい話しをしているのにそんな簡単に分かったような顔をして欲しくないと思ったこともあった。
「こんな苦しみは経験したものにしか分からん」とか「お前に俺の苦しみが分かるはずがない」ということもよく聞く。実際同じような苦しさを経験した人にしか分からないことがいっぱいあるんだろうと思う。だからこそ、自分が同じような経験をしていないならば一所懸命に分かろうとしないと、結局ちっとも分からないままになってしまうだろうと思う。それなのに簡単に分かったような顔をしてしまって、自分は理解力がありますって風な顔をすることが結構あるなと思う。そうなると話した方は、自分がひとりぼっちでいることを感じ、さらに辛くなってしまうように思う。
しかしイエスは私たちに、俺の苦しみは俺にしか分からんと言わせないために、私たちをひとりぼっちにしないために、荒れ野の誘惑を経験されたのではないかと思う。
なんで私だけがこんなことになるのか、と言いたくなることがある。しかし、そんな時もイエスは私たちの傍らにいようとする。私たちのつらさを知ろうとする。私たちが、この苦しさは私にしかわからんという時、イエスは、私には分かる、私も経験したと言ってくれているのだろう。そのための誘惑だったのかもしれないと思う。
イエスは天の上のほうで黙って見下ろしてはいない。私たちのそばに来て、私たちの苦しさを同じように経験している。だからこそ私たちの苦しさをよく分かるのだろうと思う。10節に天が裂けた、とある。神と人との境目を突き破って、イエスは人間のそばに来られた。私たちの側におられる。私たちの味方となった。
イエスが誘惑を受けたと言うのは、イエスが人間として生きたということなんだろうと思う。私たちと同じように誘惑を受ける人間として、また私たちと同じような弱さや辛さや苦しさを持つ人間として生きたということなんだろうと思う。だからこそ弱く小さいこの私たちの辛さ苦しさがよく分かるのだろうと思う。
ヨハネ14:18「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」これがイエスの約束。荒れ野の人生はつらくきびしい。荒れ野ではない、楽な人生を送りたいと思う。こんな苦しいことは御免だと思う。しかし、私たちはこの人生を送るしかない。自分の人生を送るしかない。それがたとえ荒れ野でも、それが自分の人生だ。しかしどんな荒れ野でも、そこにイエスが共にいる。私たちの苦しみも悲しみも辛さも、みんな分かってくれているイエスが共にいる。