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礼拝メッセージより
使者
福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉に続いて、「預言者イザヤの書にこう書いてある」とあるように旧約聖書の言葉を引用している。正確にはイザヤ書40:3「 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」と、マラキ書3:1「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」の両方の言葉を引用している。
つまりイエス・キリストの出来事は、旧約聖書を通して昔から神が伝えていたこと、約束していたことが実際に起こったことがらだと言っている。
その神の約束の中に、「先に使者を遣わす」ということが書いてある。キリスト自身の登場の前に使者を送る、と神は約束している。
当時の人たちはこの使者はエリヤだと考える人もいたようだ。エリヤとは旧約聖書の預言者のひとりだが、イエスさまが十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言った時に、エリヤを呼んでいると思った人がいたことが福音書に書かれている。そのように、救い主が来る前に、先に使者が来ると考えられていたようだが、洗礼者ヨハネこそがその使者である、とマルコは告げている。旧約聖書によれば、エリヤはらくだの毛布を着て、革の帯をしていたと書かれていて、ここの洗礼者ヨハネとそっくりの恰好をしていたようだ。
旧約聖書で約束されたいた通りに、先に使者として洗礼者ヨハネが登場し、その後にイエスが登場した、つまりイエスこそ旧約聖書で約束されていた救い主であるということだ。
荒れ野
3節の「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」はイザヤ書40:3「 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」の引用だ。
このイザヤ書はバビロン補囚の時代に書かれた。自分たちの国が他の国に占領され、指導者たちはその国に捕らわれていった、そんな時代に告げられた言葉が、この言葉だった。
神は荒れ野に「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言われる。道のない荒れ地に道を備えよ、と神は言われる。神が捕らえられている者たちをイスラエルに返す道を備える、もうすぐ解放される、自由にされる、もうすぐ帰れる、神がそう言っているとイザヤは告げた。捕らわれているバビロンとイスラエルとの間が、実際にこの荒野だそうだ。しかしそこに道を整えよ、と神は言われる。現実には見通しが全く立たない苦しい状況だった、にもかかわらず神はその真っ暗闇の真ん中に道を備えようとされる。イザヤはそのことを伝えた。
荒野とはまた私たちの人生そのもののことでもあるのだろう。私たちの人生も、大きな石がごろごろして歩きにくく、太陽が容赦なく照りつける、日陰になる木もほとんどない、そんな荒野のようなものかもしれない。しかし、その人生の荒野に神は道をつけようと言うのだ。人生の荒野にも神はそこに来てくれる、そして私たちを縛りつける全てのものから私たちを解放してくれる、約束されていたその時が今やって来た、この約束が今成就するという喜びが語られている。神が私たちのところへ来るということ、そしてヨハネはその先駆けであるということ、ヨハネは神が遣わされた使いであって、イエスさまをの道筋を整えるものである、とマルコは告げる。
洗礼者ヨハネ
ヨハネは荒れ野で語った。何もない荒れ野で語った。そこにユダヤ全土とエルサレムの住民は皆来たと書かれている。ヨハネは罪のゆるしを得るための悔い改めのバプテスマを授けていた。悔い改めとは、向きを変えることだ。人間の性質、性格を変えてしまうことではない。そうなるかもしれないが、大事なのは、神との関係を変える、つまり神の方を向くということ。神の方向に向きを変えるということ、それが悔い改め。
そして神の方向へ向かって行くためには、どちらが神の方角なのかを知らないといけない、そのためにも神の言葉を聞いていかねばならない。
最近の車には大抵ナビが付いていて人工衛星の電波をキャッチして道案内をしてくれる。それでどこに行きたいというのを入れておくと、次の交差点を曲がってください、なんてことを言ってくれる。
聖書というのは、このナビの人工衛星みたいなものかもしれないと思う。その電波をキャッチしていないと、自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。いつもキャッチしていると、いつもどこにいるのか分かる、私たちの向かうべき方向も分かる。
罪人の真ん中
荒野に登場したヨハネは私よりも力のある方があとから来る、と言う。ヨハネ自身はその方のくつのひもを解く値打ちもない、とさえ言う。神だから比べ物にはならない、そんな人間とは比べ物にならない方が来られて、聖霊によるわざを始められるとヨハネは告げた。
なのにイエスさまはまずヨハネからバプテスマを受けた。聖霊によるバプテスマを授けるはずの方が、まずヨハネから水のバプテスマを受けた。ヨハネが言っていることから考えると、ヨハネの方こそ何かをしてもらうことはあっても、ヨハネがイエスさまに何かをするなんてことはおかしいように思う。逆じゃないのかと思う。ちょっと変じゃない、と思う。しかしちょっと変じゃないかと思うことをイエスさまはされた。
イエスさまはバプテスマを受けるところから自分のわざを始められた。そもそもヨハネのバプテスマは、罪の赦し得させるための悔い改めのバプテスマだった。そのことから考えれば、イエスさまがバプテスマを受ける必要はなにもなかった。罪のないイエスさまにバプテスマは必要ないはずだ。バプテスマを受けるのは罪人である。罪人が悔い改めたら受ける。神を忘れて神に向かっていなかったものが、神の方を向き直った時に受ける。だからバプテスマは罪人が受けるものということになる。
しかしイエスさまはバプテスマを受けた。なぜか、それはイエスさまが罪人の側にいたから、ずっと罪人の側にいようとしたからではないか。イエスさまは罪人とは反対の聖なる場所にずっといようとはしなかった。自ら進んで罪人の側に来られた。罪深い、弱い人間と同じ所に立とうとされた。実際に立たれた。だからバプテスマを受けられた。イエスさまはその活動の最初から人間の中におられた。罪人の中におられた。そしてずっと、十字架に至まで罪人の中におられた。罪人の真ん中におられた。
そこで、罪人の真ん中でイエスさまに聖霊が降った。神は天にいて、私たちとかけはなれたところにいるのではない。神は天を裂いておりて来られた。神は遠い遠いところからじっとこの世を見ているのではない。私たちの中に来られた。私たち罪人の中に来られた。神の力は罪人の中で発揮される。
私たちの中に、私たちの普段の生活の中に、私たちの罪にまみれたこの世の生活の中に、イエスさまは来られた。罪の真ん中に来られた。罪人の私たちの真ん中に来てくれた。
11節「 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」。
神は大事なつとめをイエスさまに託された。この世の主として君臨することを許された。しかしそれは罪人を滅ぼすためではない。そうではなく、罪人を罪から解放して生かすため、そのために自らしもべとなって、人々に仕えるためであった。
イエスさまがヨハネからバプテスマを受けたとき、外見は他の人と何の区別も出来なかったのだろう。光輝くものとしてではなく、目立たないひとりの人間としてバプテスマを受けただろう。まったく普通の人間と同じように、罪人と同じようにバプテスマを受けた。イエスさまは私たちの真ん中にいる。罪人の真ん中にいる。ずっと罪人の真ん中にい続けた。取るに足らないような者たちの真ん中にい続けた。そしてそれこそが神の御心、神の心にかなうこと、神の子にふさわしいことだ、と天からの声は語っている。
マルコはイエスさまこそ神の子であると信仰をもって語る。イエスさまこそ救い主であると語る。救い主であるイエスさまが私たち罪人の真ん中に来られた、私たちの真ん中に来られた、私のところにも来てくれている、マルコはそのことを語ってゆく。