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礼拝メッセージより
福音書
新約聖書の中に福音書というのが四つあります。その中でこのマルコによる福音書が一番先に書かれた、編集されたようです。
でもこの福音書というのは、イエスさまが十字架で処刑されて、復活されたすぐあとに書かれたものではありませんでした。最初の教会の人達は、イエスさまの再臨がすぐにあるように考えていたようでした。パウロもそうだったようです。パウロの手紙にも、最初の頃の手紙では、イエスさまはもうすぐ来るんだから、ということが書かれています。
しかし、時が経つに連れて再臨がなかなか来ない、どうやらすぐではなさそうだということになってきます。そして何年も経ってくると、そこで新しい問題が起こってきます。それはイエスさまがすぐには来ないとなると、新たに教会にやってくる人たちにイエスさまのことを正しく伝えていかなければならないということになってくるわけです。それまではイエスさまを直接見て、直接話を聞いた人も教会の中にもいたのでしょうが、そんな人達も順番に召されていなくなってしまいます。
そこで後の人達にイエスさまがどう言う方で、どんな話をされたかということをまとめて残しておく必要が出てきました。そこで書かれたのが福音書だったのです。そういうわけで、福音書は、イエスさまがこんなことをした、こんな話しをした、というような言い伝えのようなものを、マルコやマタイやルカやヨハネが、まとめて編集したものということになります。
喜びの知らせ
そして今新約聖書にある四つの福音書の中で、最初にまとめられたと言われるのがマルコによる福音書ですが、この福音書の最初には「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれています。つまりマルコはイエス・キリストの福音を書こうとしているのです。マルコは○年○月○日、イエスさまが何をして、なんてことを、伝記のように書こうとしているのではありません。だいたいこの福音書にはイエスさまの誕生のことは何も書いてありませんし、日付にも関心がないというか、イエスさまは片田舎にひっそりと産まれ育った正確な日付などの記録もきっと残ってなかったのだと思います。マルコは歴史的なことを証言するためにこの福音書を書いたのではありません。福音書とあるように、文字通り福音を伝えるために書いているということです。
この福音という言葉ですが、ギリシャ語では「ユウアンゲリオン」とか「エヴァンゲリオン」いうことばですが、その意味は「良い知らせ」英語だと「good news 」、特に戦いの勝利を収めたときの知らせであり、言わば「喜びを知らせ」でもあります。
つまり福音書とは喜びを伝えるもの。もちろんイエスさまのことが書いてあるのですが、イエスさまの生涯に何があった、いつどこでどんなことを、といったことを知らせることだけが目的ではありません。それを記録することが目的ではありません。喜びを知らせる、喜びの知らせを伝えること、それこそが目的なのです。イエスさまの語った話や行いを通して喜びを伝える、それが福音書の目的ということになります。
もしイエスさまを良い話しをした立派な人物としか見ないならば、十分ではありません。福音書を読んで、イエスさまが立派な人だったんだとしか思わないならば、それは本当に福音書を読んだことにはならないということになります。イエスさまがいつどこでどんなことをしたか、どんな話しをしたかということだけを知ったとしても、それで福音書を読んだことにはなりません。あるいはそれを全部覚えたとしても、それでは本当に福音書を読んだことにはなりません。福音書は、そこから喜びの知らせを受け取らなければ意味がありません。
神の子
マルコは、ここで「神の子、イエス・キリストの福音」と言っているように、これは神の子について書かれたものです。神の子が地上にこられたと福音書は語ります。
何のために来られたのでしょうか。それは神が、ご自分が作られた世界を取り戻すためです。罪のために神から離れてしまっている人間を、取り戻すためです。そのために神の子が来たと言うのです。
神の子とはどういうことなんでしょうか。父である神と子であるイエスとの関係とがどういうものなのかよく分かりません。そもそも私たちは神がどういうものなのか、どういう方なのかよく知りません。神がどういう風に働かれるのかもよく知りません。
しかし福音書は神の働きは、イエス・キリストに見ることができると伝えています。イエス・キリストを見ることは、その言動を見ることは神の働きを見ることだと言っています。イエスは神だ、と言っています。
ヨハネによる福音書の14章には、弟子のピリポがイエスさまに父を示して下さい、そうすれば満足します、と言ったことが書かれています。それに対してイエスさまは、「私が父におり、父が私におられるのだ、私の内に神を見なさい」と言われました。
神はイエスさまによってご自身を示されました。そのイエスさまは福音書を通して知ることができます。マルコは信仰をもってこれを書きました。私たちも信仰をもってこれを読むとき初めて、福音書から福音、喜びのおとずれ、喜びの知らせを聞くことが出来ます。そしてその信仰さえ、神が私たちに与えてくださるものなのです。
憐れみ
神はご自身のことを私たちに示してくださいました。それは全て神の憐れみからでたことでした。すべて神の恵みだったのです。私たちがイエスさまを知っている、イエスさまがキリストだと、救い主だと知っている、そのことを信じている、そのことは私たちの力で努力で得たものではありません。全部、神が用意してくれたことでした。だからこそ、この喜びは大きな大きな喜びです。私たちの側に何もない、のに神は私たちを神の子としてくださるのです。だから、喜びなのです。私たちは立派な行いの報酬としてそうして貰ったのではありません。働きもなにもないのにそうしていただいたのです。
イエス・キリストの福音はそんな福音です。イエス・キリストの喜びはそんな喜びです。
共に喜べ
そして今この福音は私たちに託されています。教会に託されています。
私たちはこの福音を伝えていくためにもこの教会に集められています。
礼拝を守るということに汲々としていたと反省しています。人数が少なくなったと言って内向きになっていたと思います。
教会にやってくる人たちはきっと弱く傷ついた人たちです。福音が必要な人たちです。そんな人たちのことをもっともっと大切にしていきたいと思います。また合唱団の練習などで会堂に出入りしている人も大勢います。その人たちにも福音を伝えたいと思います。そのためにも教会を日頃からきれいにして教会らしく整えていきたいと思います。
福音を伝えるために私たちは何をすればいいのでしょうか。私たちに何ができるでしょうか。是非そのことを祈って聴いていきたいと思います。
祈りとは神を変えることではなく自分を変えることだと聞いたことがあります。祈りとは神に誰かを導いてくれと祈るだけではなく、実はそれよりもその誰かのために自分に何ができるかと聞くことではないかと思います。
福音を伝えるために何ができるか聞いていきましょう。福音は喜びの知らせだと言いましたが、福音を伝えることも喜びであり、福音をどう伝えようかと考えることも喜びだなあと思います。
福音を伝えることで共に喜びなさい、神はそう言われているのではないでしょうか。