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礼拝メッセージより
ローマの信徒への手紙とは
「第三次宣教旅行で最終目的地をローマと考えていたパウロは、エフェソに滞在中、予想外のコリント教会のトラブルに手間取り、ローマ行きの計画を変更します。
ローマに行く前に、エルサレム教会の最高権威、主の兄弟ヤコブの了解(和解?)を得る必要性を感じたパウロは、身の危険を顧みず、異邦人教会の献金を持参してエルサレムを訪問する決心をします(15・25〜26)。
このため、遅れてはいるがやがて訪れる予定のローマの異邦人信徒宛に、自己紹介を兼ね自分の福音を紹介して、挨拶と励ましの手紙を書きます。コリント教会と和解し三度目の訪問を果たしたパウロが、コリント滞在中書いたとされます(57年〜58年冬)。」
今日の箇所の中にローマ訪問の目的が書かれていて、それは霊の賜物を分け与えて力になりたい、そして互いに持っている信仰によって励まし合いたい、その実りを得たいということだ。ローマには何回も行こうとしてその都度妨げられたけれども、異邦人への福音宣教の使徒としての責任があり、ぜひ福音を告げ知らせたい、ということだ。
そしてその福音については、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であり、神の義が掲示されている、と語っている。
福音とか義とか救いとか、小難しい言葉がいっぱいで
愛
ある長年牧師をしている人が、自分が語ってきたことは神に愛されていることだけだ、と言っているそうだ。あなたは神に愛されているということだけを語ってきたそうだ。旧約聖書のイザヤ書43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(新改訳)とある通りだ。
神に愛されていること、それこそが福音だ。イエスは差別され、除け者にされ、罪人とされた人たちと共に生き、十字架につけられてまで最後までその人たちの味方だった。そして今も、間違いらだけの、何の価値もないような私たちに寄り添って下さっている。イエスはそのことを通して神の愛を私たちに示してくれた。私たちは何もしていないのにそうしてくださっている。神の側ですべてを備えてくれた。それは神が私たちを愛しているからだ、と聖書は告げる。
愛される
神に愛されている、それが根本だ。それが福音である。聖書が語ることは難しいことがいっぱいある。でも基本的には神に愛されているということだ。ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
その愛されていること、神に愛されていることを伝えるのが宣教だろう。教会の日常の伝道も、世界伝道も、あなたは神に愛されているということを伝えることだと思う。教会の外の人間を捕まえてきて、教会の勢力を大きく強くするために伝道するわけではない。教会が大きくなったら嬉しいし、大きくなって欲しいという気持ちはいっぱいあるけれど、教会が大きくなるために、教会を大きくするために伝道するのではなく、そのために宣べ伝えるのではなく、その人が神に愛されていることを知らせるため、神に愛されていることを知ってほしいからするのだと思う。その結果教会が大きくなればいいけれど、たとえ大きくならなくても神から愛されていることを伝えられればそれでいいんだと思う。
ひとりぼっちじゃない
人間は誰にとっても愛が必要なのではないかと思う。お前が大事なのだ、と言ってくれる相手が必要なのだと思う。何もない、何もできない、何のとりえもない、そんな現実の自分をなおかつ大事に思い、愛してくれる、そんな相手が必要なのだと思う。
「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」とこの手紙を書いたパウロは語る。福音は力なのだと。神に愛されている、それが力なのだというのだ。
私たちを苦しめるものとは一体なんなのか。いろんな事が私たちを苦しめる。しかしその中で一番は、自分が必要ないのではないか、という思いだろう。
マザー・テレサは「誰からも必要とされていないというひどい恐れ、誰からも愛されていないというこの貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっとひどい貧しさだと思います。」と語っているそうだ。
これはきっと世界中の誰にとっても言えることだろと思う。誰からも必要とされていない、誰からも愛されていない、という思いが私たちを苦しめる。しかしそんな私たちに神は語りかける。お前が大事だ、おまえを愛している、と。私たちを根底から支えてくれる言葉がそこにある。
あるいは誰かから、お前なんかいなくてもいい、お前なんかいない方がいい、と言われることもあるかもしれない。私たちはそんな言葉を心の奥にしまいこんでしまう。そんな自分を否定する言葉を誰もがいくつも持っているのではないか。自分は駄目ではないか、価値のない人間ではないか、というそんな思いが自分を苦しめる。成功しているときにはそんな思いは表には出てこない、しかし間違ったり失敗したとき、また非難されたとき、そんな自分を否定する言葉がうずき出す。こんな自分は誰からも認められない、やっぱり自分は駄目だという思いが私たちを揺さぶる。
しかし神はそんな私たちに語り掛ける。お前を愛している、そんなお前を愛している、何もできない、何も持っていないそのままのお前が大事だ、お前は価値があるんだ、と。
実はそこにこそ私たちを生かす力があるのだと思う。
神の力
福音を恥としない、と言うことは福音なんて恥だ、何の役にも立たない、そんなものを信じているなんて恥ずかしい、と思う者がいたということかもしれない。
確かに福音を信じたからと言って、出世が出来る訳でもないし、お金儲けが出来る訳でもないし、病気が治る訳でもない。苦しい状況がなくなるわけではない。だから福音なんて何の力にもならない、と思われる。
むしろ、弱いものであり、また無力としか思えない。だから、愚かとさえ思える。大体イエスの十字架なんて、無力の象徴のように見える。
旧約聖書の申命記21:23には「木にかけられた死体は、神に呪われたものだ」なんて書かれていて、その言葉からすると恥だと思っても不思議ではない。
しかし、パウロは、コリントの信徒への手紙11:18 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と言っている。また、今日の箇所でも、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」と言う。十字架の言葉なんて、いかにも愚かであり無力に見える、けれども実はこれこそが神の力であるという。これこそが、救いを得させる本当の力なのだというのだ。だから、パウロはこれを恥とはしないのだろう。
愛する
では、そんな神に愛されている私たちは何をすればいいのか。何ができるのか。マザー・テレサは「誰もしようとしないような、小さな、つまらない仕事をしましょう。小さすぎると言うことはありません。私たちは小さい者ですから、それにふさわしいやり方で物事を見ていきましょう。しかし、全能でいらっしゃる神は、偉大な方法ですべてをご覧になります。だからあなたは、目の見えない人に手紙を書いてあげたり、横に座って話しを聞いてあげたり、手紙を出しに行って上げたり、ちょっと人を訪ねるとか、お花を持って行くとか、誰かのために洗濯や掃除をしてあげましょう。つまらない仕事が、私やあなたのすることです。大きいことのできる人はたくさんいます。でも小さなつまらないことをする人は少ないのです。シスターやブラザーも小さな仕事をやっています。私は、ほんの少しの仕事しか人のためにできませんが、でも少なくとも、私たちが愛を持ってしているということ、その人たちのことを気にかけていて、その人たちの気に入るようにしてあげたいと思っていることをわかってくれるでしょう。」といっている。
私たちに出来ることはなんなのか。小さなつまらないこととはなんなのか。それをしていきたい。しなければならないからではなく、それをすることが私たちの喜びになる、私たちの喜びを増やすことになるからだ。
教会って、そんな喜びを分かち合うところ、神から愛されているという信仰によって愛し合い励まし合うところなんだと思う。