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礼拝メッセージより
エマオの途上
エマオの途上という絵が教会の玄関に掛けてある。今日の聖書は丁度その箇所になる。
エマオはエルサレムから60スタディオン、約11km離れた村だそうだ。
余談だけれど、スタディオンは長さの単位で地域によって少し違いがあるそうだけれど約190mとなるそうだ。これは太陽が1個分移動する時間がだいたい2分で、その間に歩く距離ということで、それを1スタディオンとになっているそうだ。古代の競技場は1スタディオン、190mほどの真っ直ぐなトラックがあって、その周りに観客席があるという構造になっていて、そこから競技場をスタディアムと呼ぶようになったそうだ。
戯言
ということで今日の聖書は、二人の弟子がエルサレムから60スタディオン離れたエマオへと向かっている途中の話しになる。そしてそれはイエスが十字架で処刑されてから三日目の出来事ということになっている。
今日の聖書のすぐ前のところには、イエスの墓へ行った女性たちがイエスの遺体は見あたらず、天使からイエスが復活したと告げられた、そこで使徒と言われるようになるイエスの弟子たちに話したが使徒たちはそれを戯言と思った、そして使徒の一人であるペトロも墓へ行ってみたがそこには亜麻布しかなかったので驚いたと書いてある。
二人の弟子がエマオへ向かう途中、その日の出来事を話し合い論じ合っているとイが近づいて来ていろんな話しをしたけれど、弟子たちはずっとそれがイエスとは分からなかった。そして夜の食事の時の振る舞いを見たことでイエスと分かった、と思ったら見えなくなった。それでエルサレムへ引き返して他の弟子たちにその話しをしたという話しだ。
突っ込み
何だか変な話しで、疑問に思うところがいろいろある。
日本基督教団の鶴川北教会のメッセージに、十字架については福音書は結構共通することが書かれているけれど、復活については福音書によって随分違うことが書かれている、復活とはどういうことなのかということを伝えるのに苦労しているとあった。またルカというのは物語の神学者であるので、復活についても物語として伝えようとしていると書いてあった。
きっとそうなんだと思う。ここに書かれているのは、実際に起こった出来事の記録ではなく、ルカがこの物語を通して復活とはどういうことだったのか、そして弟子たちが復活のイエスとどういう風に出会ったのか、そんなことを伝えようとしているということなんだと思う。
弟子たち
ここに登場する二人の弟子は、イエスの弟子たちみんなのことを表しているのだと思う。
当時イスラエルはローマ帝国に支配されていて、ユダヤ人は誰もが、やがて救い主メシアが現れてイスラエルをローマの支配から解放してくれると期待していたようだ。そしてその救い主はかつてイスラエルを強い国にしていたダビデ王のように力強い王としてやってきて、世の中を変えてくれる考えていたようだ。
イエスの弟子たちもユダヤ人であって、イエスに対してそんな力強い王を期待していたような節がある。ところがイエスは無力なまま十字架で処刑されてしまった。全く予想外の出来事に弟子たちは何がどうなっているのか訳も分からず、あるいは逃げるようにしてエルサレムを離れて故郷へと向かっていたのだろう。
イエスはどうして十字架で殺されてしまったのか、メシアじゃなかったのか、イエスに期待していた自分達は間違っていたのか、弟子たちはいろいろな思いを持ちつつ聖書を調べ、語り合ったのだろう。当時の聖書とは旧約聖書のことだけれど、その中にメシアが苦しみを受けて栄光に入るという箇所を見つけたのだと思う。メシアは兎に角力強い者だと考えていたのは自分達の勝手な思い込みだと気付いたのだろう。
そこから改めてイエスに対する見方が変わっていったのだと思う。イエスの姿や言葉を思い返すことで、力強い神々しいメシアを期待していた時には理解できなかったイエスの振る舞いや言葉が、少しずつ理解できるようになったきたのだろうと思う。そして改めてイエスの言葉を振り返ることで、改めてその言葉に励まされ勇気づけられていったのだろう。あの時あんなことを言っていた、あの時にはこんなことを言っていた、そんなことをワクワクしながら思い返し話し合ったのだろうと思う。それはまさにもう一度イエスの姿を見、もう一度イエスと出会う出来事ような出来事だったのだろう。
自分達を徹底的に赦し、自分達を徹底的に肯定し全てを受け止めてくれる、弟子たちはそんなイエスの愛を再発見したのだと思う。それはまさに自分達の心の中に、イエスが甦る、そんな出来事でもあったのだと思う。食事の時の振る舞いでイエスだと分かり、そうすると見えなくなったとあるのは、かつての生き様を思い浮かべることでイエスを知ることが出来るということであり、それこそが復活のイエスと出会うということであって肉体の目で見るということとは違うということを言っているのかなと思う。
兎に角復活とはそういう出来事だったのだということを、ルカはこの物語を通して伝えようとしているのだと思う。
私たち
またこの物語は私たちとイエスとの出会い方を教えてくれているようにも思う。
私たちも聖書を通してイエスのことを知り、イエスと出会うことができる。この物語では二人が話し合っているときにイエスの方が近づいてきたとあるように、聖書について一体これはどういうことなんだろうと話し合っているところにイエスの方から近づいてきてくれているということかもしれない。イエスも「二人または三人が私の名によって集まる時には、わたしもそこにいる」というようなことを語っている。
聖書を通してイエスの語った言葉やイエスの行ったことを聞く、これはどういう意味なんだろうと語り合う、そこにイエスはいる、そうやって私たちはイエスと出会っているということなのだろう。
イエスの言葉は私たちをわくわくさせ、ドキドキさせ、そして安心させてくれる言葉だと思う。私たちを徹底的に肯定し支えてくれる言葉だ。私たちはこの聖書を通して、そこにあるイエスの言葉を通してイエスに出会っているのだ。
心の奥で
イエスは十字架で処刑されるまで弱いままであった。私たちと同じように弱いままであった。そしてイエスはその弱さを持って、弱いところから私たちに語りかけてくれているように思う。
私たちもいろんな大変な状況の中に生きている。現実の厳しさが自分を打ちのめす。思うようにいかないこと、思いもよらぬことに打ちのめされ、自分の無力さや無能さを嘆くような時もある。自分が生きている意味はどこにあるのかと思うような時もある。
重苦しい悲しみや嘆きや失望、そんな物が積み重なっている私たちの心の奥にイエスは来てくれる、心の奥でイエスと出会うのだ。そしてそこから私たちに語りかけてくれている。
「大丈夫、私はあなたのことをよく知っている。あなたの苦しみも痛みもよく知っている。何も出来ない、何も持ってないかもしれない、けれども私はそんなあなたが大切だ、そのままのあなたが大切だ。私はどこまでもあなたの味方だ。何があっても絶対に見捨てない。いつまでもどこまでも一緒にいる。」
私たちにそう語りかけてくれるイエスの声が聞こえるようだ。