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礼拝メッセージより
食事
イエスが食事をしたことがたびたび福音書の中に出てくる。そして十字架につけられる前の最後の食事が丁度過ぎ越しの食事だった。
イエスは度々徴税人や罪人とされる者たちと共に食卓につかれている。社会からのけ者にされている者たちと共に食事をしている。神にとって、神の国にとっていかにもふさわしくないと思えるような者たちと共に食事をするのだ。実際周りからはそういう風に非難されていた。
しかしイエスの周りにはいつもそのような者たちがいた。立派な常識人だけがいたのではなかった。立派な信仰者ばかりではなかった。むしろそうでない者たちばかりだった。社会的には落伍者、脱落者と言った方がふさわしい者たちがイエスの弟子となっていた。
パンと杯
今日はイエスと弟子たちが過ぎ越の食事をした場面だ。元来過ぎ越し祭は、アビブの月(捕囚後の暦法ではニサン)の1日に一歳の雄の小羊を選び、14日の晩にそれをほふり、その血を入口の柱と鴨居に塗った。エジプトを脱出するときその血を塗った家は神の災いが過ぎ越していったということを記念していた。そして肉は焼肉にし、過越の小羊として食べた。その翌日15日から1週間を「除酵祭」として、つまり種をいれないパンを食べる祭りとして守ったという祭りだった。種入れぬパンは急いでエジプトから出たときパン種を入れて発酵させる時間がなかったので種を入れないで急いで焼いたことから、先祖の苦労を象徴しているものだったそうだ。神がエジプトから自分たちの祖先を救い出してくれたことを記念するという祭りだった。
イエスは最後の食事でパンを取り感謝の祈りを唱えて、これはあなたがたのために与えらるわたしの体であるという。そして杯は、これはあなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である、と言った。
裏切り者
結局この食事がイエスの最後の食事となった。イエスは最後の晩餐を使徒達と共にした。しかしこのイエスの弟子の中には裏切り者がいたというのだ。イエスを金で売ったユダがいた。彼もこの最後の晩餐の席にいる。イエスと最後の食事をしている。しかし裏切り者はユダだけではなかった.。十字架を前にして弟子たちは誰もがイエスを見捨てて逃げてしまった。そういう点では弟子たちみんなが裏切り者だった。
そんな裏切り者をイエスは弟子としていた。そして最後まで一緒にいた。最後の食事まで一緒にいた。そんな弟子たちであったが、イエスはその弟子たちを捨てない。ずっと一緒にいる。十字架を前にして弟子たちはみんなイエスを見捨てて逃げた。でもイエスはそんな弟子たちを切り捨てることはなかった。
裏切り者と
弟子の中には、われこそはどこまでも先生についていく、ということを勇ましく語った者もいた。この晩餐のあとに誰が一番偉いかといことで議論が起こったという。以前にも誰が偉いかといってもめたことが書かれている。それはまるで人間が生まれ持った習性でもあるかのようだ。
そんな弟子達だったが、彼らはみんなイエスを裏切ってしまった。イスカリオテのユダが裏切ったことは有名だけれど、ユダだけではなく他の11人の弟子たちもイエスを見捨てて逃げてしまっている。この晩餐は言わば裏切り者たちの晩餐でもある。
イエスをいただく
イエスはパンを取って、あなたがたのためのわたしの体であるといい、杯はあなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約であると言い、それを食べまた飲むようにと言ったようだ。
わたしの記念としてこのように行いなさい、ということから毎月主の晩餐をしているけれど、イエスの体を食べ、イエスの血を飲むということはどういうことなんだろうか。
それはイエスの思い、私たちを大事に思うその思い、私たちを徹底的に肯定するという思い、何があっても味方でいるという思い、いつまでも愛するという思い、そんなイエスの思いを噛みしめるということなのではないかと思う。
そしてそれはイエスを裏切ることになってしまう弟子たちに向けての思いでもある。弱さや欠点や間違いを持っている者に対しても、イエスは熱い思いを持っている。むしろそんな者たちのことを大事に思っているような気がする。
イエスは人間が持っている弱さやだらしなさ、自分中心的な思い、そんなものをよく知っているのだろう。人間として生きたわけで当然かもしれないけれど。
しかしどうして十字架で処刑されなければいけなかったんだろうか。私たちの罪のためにイエス自身が贖いの小羊として死んでくれたというようなことも聞くけれど、それは旧約聖書的な解釈のように思うし、しっくりこない。
結局はよく分からないけれど、弱い私たちとどこまでも同じ人間であることを貫いたということ、徹底的に弱い私たちの味方でいたということかなと思う。
そのイエスの思いを忘れないために、また改めて噛みしめるために、私たちは主の晩餐を通して、パンと杯を通してイエスをいただいているということだろう。パンと杯を通して、イエスの熱い思いを私たちはいただいているということなんだろうと思う。