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礼拝メッセージより
イライラ
エルサレムにやってきてからのイエスの言葉はなんだか刺々しいように思うのは考えすぎだろうか。何だかイエスがイライラしているような気がする。
それまでにも自分がやがて十字架につけられ三日目に復活するなんてことを弟子たちに語ったなんてことが書かれているけれど、本当にそんなことが分かっていたんだろうか。十字架につけられて殺されると分かっていてエルサレムへやってきていたんだろうか。何だか挑戦的な物言いになっているように思うのは気のせいだろうか。
ぶどう園と農夫
今日のたとえは、ある人(ぶどう園の主人)がぶどう園を作り、農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になって収穫を受け取るために僕を送った。ところがその僕は袋叩きにされて帰ってきた。何回かそんなことを繰り返したがみんなだめだった。そこで一人息子を送って、こいつなら手荒なまねはしないだろうと思っていたら殺されてしまった。そんなことをしたらぶどう園の主人は、農夫たちを殺して、他の人たちに与えるだろう。まあそんな話しだ。
このぶどう園の主人=神、ぶどう園=イスラエル、農夫たち=イスラエルの指導者たち、主人の僕=預言者たち、一人息子=イエスということになるようだ。他の人たちとは異邦人のことになるのかな。
そうすると、イスラエルの指導者たちはかつては神の言葉を伝えた預言者たちの言うことを聞かず、今度はひとり子であるイエスをも殺そうとしているということを言っていることになる。
もちろん祭司長や律法学者にとってはそんなのはばかげた話でしかない。お前が神の一人子だなんてふざけるんじゃないぞ、というところだろう。
このたとえだと、主人の息子も殺され農夫も殺されてしまって終わっているけれど、その後の17節に「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という言葉がある。これは旧約聖書の詩編118:22に「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。」と書いてある言葉だ。
息子はぶどう園の外に放り出されて殺されてしまったけれど、実はその息子が隅の親石となる、救い主となるということを伝えているらしい。
それにしても血なまぐさい、残酷な話である。どうしてこんなたとえを話さねばならなかったのか。人間と神との関係はこんな関係なのか。殺そうとしたり、殺したりの関係なのか。
本当に変なたとえだなあと思う。この主人もおかしい。僕が3人も袋だたきにあってるのに、どうして息子だったら大丈夫だなんて思ったのだろうか。
考えれば考えるほど訳の分からないたとえだ。
無力
それにしても息子を殺された主人は農夫たちを殺してしまうほど力があるのに、その息子はどうしてこんなに無力なんだろうか。息子は農夫たちのもとへ行ってただ殺されてしまう。なんとも無力な息子だ。
しかしそれはまさにイエスの姿そのものであるような気がしている。
役に立たない、使い用のない石だと思われていたのだろう。
捨てられた石が隅の親石となった、捨てられた石が一番要の石となったということだ。
無力で何の役にも立たない、邪魔でしかない、そうして社会から捨てられてしまったようなイエスだった。
しかし私たちが社会から捨てられてしまうような時も、落ちこぼれてしまう時も、しかしまさにそこにイエスはいるということだと思う。
財産もない、能力もない、功績もない、何の役にも立っていない、まさに社会から捨てられてしまった自分、しかしそこにイエスはいてくれているのだと思った。
先日の保育園内研修のハイライト。
「自己肯定感とは、できることがたくさんある優越感ではなくて、できないときにも自分を肯定できる感覚のこと」それを育むのが自分たちの仕事なのだと、控えめな保育者さんがまとめて語ってくださいました。すごい。
こんなこともあんなことも出来るようになって、地位も財産も名誉も持つことで安心するような気持ちがあるし、そうなりたいと思う。
けれども実際にはなかなか思い通りにはならなくて、逆に何も出来るようにならなくて、なにもない自分に嫌気が射してしまい、なげくばかりだ。
しかしそんな自分をイエスは肯定してくれている。何も出来ない、何も持っていないこの自分はイエスは肯定してくれている。社会から捨てられたこの私をイエスだけは徹底的に肯定してくれている。だってイエス自身が捨てられた石だから。
捨てられた石
病院のチャプレンをしている人の解説の中にこんな言葉があった。
「病は遠い神からのメッセージ、人々を幻想の世界の夢から呼び覚ます『神のメガホン』」
病気の時にこそ人生の大切なことを思い起こさせてくれるのだというようなことが書いてあった。
レールの上を順調に走って行くような人生を目指してそれを期待するけれど、いつもいつも調子のいい時ばかりではない。病気になったり怪我したりすると予定していたことがストップしてしまうことがあるし、時には脱線してもとに戻れない時もある。
歳を取ってくると少しずつできないことが増えてくる。そしていつか私たちは全てを捨てなければいけないときがやってくる。最後は何も出来ない、何も持っていない自分へと戻っていく。
しかしそこにイエスはいてくれているのだろう。何も出来ない、何も持っていない自分を大事に思ってくれている、大切に抱えてくれるイエスがいてくれているに違いないと思う。
実は今もイエスは私たちと共にいてくれている。何もできない、何も持っていない、捨てられた石のような私たちと共にいてくれているのだ。イエスこそが私たちの親石、大切な要の石、そのイエスが何もない私と共にいてくれていること、それこそが救いなのだと思う。