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礼拝メッセージより
ろばの子
「主がご入り用なのです」で納得したのだろうか。なんだかイエスの不思議な力によって借りることができたかのような感じだけれどどうなんだろうか。
前もって借りるという了解があって、「主がご入り用なのです」というのがイエスが借りに来たという合言葉であったのではないかという説もあるそうだ。
あるいは、ろばは旅行する者が借りたり雇ったりするために、そのために村人が家で飼育することが多かったそうで、借り主が必要なので借りに来たのだと言ったということで不自然なことではない、という説もあるそうだ。
ここで使いの者がこの子ろばをほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ子ろばをほどくのか」と言った、と書かれている。この子ろばはイエスが乗るためのものであって一頭だけだろう。なのにこの子ろばには持ち主たちがいる。複数の持ち主があるということになるようで、貧しい人たちが共同で所有している子ろばということだったようだ。
エルサレム入城
兎に角イエスはそんな子ろばに乗ってエルサレムに入っていった。普通新しく権力者になるものは馬に乗って都へ入っていった。戦争に勝って、相手を征服したときには、馬に乗って相手の都へ入っていった。馬は権力の象徴でもあった。また軍事力でもあった。旧約聖書の箴言21:31に「戦いの日のために馬が備えられるが、救いは主による」なんていう言葉がある。支配者はこんなに強いんだということ、またこんなに軍事力があるんだということを見せつけるためにも馬でやってくる。しかしイエスが準備したものはろばだった。
「まだ、誰も乗ったことのない子ろば」がイエスのためにとっておかれた乗り物だった。ろばは戦いのためにはなんの役にも立たない。ろばは人間が生きていくために役に立つ動物だそうだ。日常の生活のために役に立つ動物だった。かっこいい仕事ではなく、いわば雑用ばかりさせられるような動物だったようだ。その雑用係の動物に乗ってイエスはエルサレムへと入っていった。
イエスを乗せたからといって、それで突然、特別なろばになるわけではない。何かの箔がつくわけでもない。イエスを乗せた後はまたいつもの雑用が待っている。そんなろばに乗ってイエスはエルサレムへと入っていった。
讃美
人々は自分の服を道に敷いた。そして「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」と神を讃美したと書かれている。マルコの福音書では「ホサナ」と言ったと書かれている。ホサナとは「お助け下さい」、「今、救ってください」と言うような意味があったそうだが、その当時には王を迎える言葉としての決まり文句のようになっていたらしい。
群衆の叫びは、イスラエルの王の到来を待ち望む叫び、かつての強国、ダビデの国をもう一度、という気持ちもあったのかもしれないけれども、何よりも自分たちを苦しめているものから解放して欲しい、この苦しい現状から救って欲しいという願いを込めての叫びだったようだ。
ゼカリヤ書9:9-10 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」
イエスはこの箇所を意識して子ろばに乗ってエルサレムに入っていったのではないかと多くの人が書いていた。イエスがどれほどゼカリヤ書を意識していたのかはよく分からないけれど、イエスこそ地の果てまでを支配する平和の王であるということをゼカリヤ書を通して告げているようにも思う。
叫ぶ者と共に
ファリサイ派のある人々がイエスに「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った、と書かれている。イエスを群衆が熱狂的になることで、ローマ帝国の役人に目を付けられてしまうから、もっと静かにさせないとまずいですよ、ということだったのではないか、と書いてある注解書があった。静かに穏便にしておかないと面倒なことになりますよ、と言うのは確かにもっともだ。先生と語っていることからも、ファリサイ派の人たちの中にもイエスを慕う人たちがいて、面倒なことにならないようにと心配していたということのようだ。
でもイエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」と言った。もちろん石が叫ぶことはないだろうけれども、この人たちの叫びを誰も止めることはできないのだ、この叫びは現状を何とかしてほしい、救って欲しいという魂の叫びなのだ、だから止めることなどできないのだ、と言っているような気がする。
民は救い主を待ち望んでいたようだけれど、それは現状が苦しくて仕方なくて、そこからなんとしても救い出して欲しいという気持ちがあったということだろうと思う。その苦しみが大きい分、それだけイエスに対する期待も大きかったということなのではないかと思う。もちろんこの時にはイエスのことを本当には分かっていなくて間違った期待をしていた人たちがほとんどだったと思う。
けれど多分に誤解している民ではあっても、苦しい人生を生きていて、ひたすら救いを求めている、その民の叫びを認めて、その民の側に徹底的に立つ、苦しんでいる者の味方になる、イエスが「もしこの人たちが黙れば石が叫びだす」と言ったのはそういう気持ちの表れなのではないかと思う。
イエスはこの時どんな気持ちでいたのかということがとても気になっている。福音書を見るとイエスは、やがて殺されて三日目によみがえるなんてことを弟子たちに何度か語ったと書かれている。本当にそんなこと言ったんだろうか。それが分かっていてエルサレムへ向かったんだろうか。
どこまで詳しく分かっていたかはよく分からないけれど、命の危険は感じてはいたんだろうと思う。そんな危険なところへ敢えて向かうというのはどんな気持ちだったのだろうかと想像すると、なんだかとても苦しい気持ちになる。
ろばに乗るイエスは、歓喜の声に応えて晴れ晴れとした気持ちでいわたけではないだろう。自分を歓喜の声で迎える人たちの裏側に潜む苦しみや悲しみを感じつつ、不安や怖れも抱いていたのではないかと思う。
そしてそれ以上に、この人たちの味方でいる、この人たちと共にいる、という覚悟を持っていたのだろうと思う。
差別され、疎外それ、除け者にされ、罪人とされ、弱くされた者たちの苦しみに寄り添い続ける、徹底的に味方でいる、その覚悟を持ってエルサレムにやってきたのだろう。そしてその思いを持って今も私たちと共にいてくれているのだろう。