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礼拝メッセージより
やもめ
例によってイエスのたとえ話である。
今日のたとえにはやもめが登場する。やもめということは夫を亡くした妻ということだ。このやもめが裁判官に裁きを求めてが、なかなか取り合ってくれなかったけれど、しつこく頼んでやっとその気になったというたとえだ。。
夫を亡くした女は日々の暮らしが大変。法律的にも社会的にも保護されない無力な存在だったようだ。裁判の相手が誰なのか、どういうことで裁きを求めているのかという話しも出てこない。ありそうなのは夫の残した財産をだまし取られたというようなことだ。しかし裁判で証言できるのは成年男子だけだったそうで、自分の意見を代弁してくれる夫を亡くしたやもめはそれだけでも不利な立場におかれていた。
もちろん裁判官に金銭や贈り物をする経済力も持たない。放っておけばなにもかも取られてしまう、無力なやもめにとって、しつこく裁判官に願い出るしかすべはない、自分を守るためにはそれしかない、そんな状況だったらしい。
裁判官
片やここに登場する裁判官はとんでもない裁判官だ。自分で「神を畏れず、人を人も思わない」と豪語するような裁判官だ。
最初はやめもの願いを無視していた。しかしやもめがあまりにしつこいので彼女のために裁判をしてやろうと思うようになったという話しだ。
まして神は
7-8節には「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わすに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」とある。
ちょっと困った。1節に、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるためのたとえだと書いてある。けれど、神が速やかに裁いてくれるのであれば気を落とすこともないし、ずっと叫び続ける必要もないと思うのだ。
このたとえだと、まして神は私たちのことを大事に思っていて、私たちの必要もよく分かっているのだから、くどくどと祈る必要はないという結論になりそうな気がしている。
再臨
8節の後半に「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」という言葉がある。
今日の箇所のすぐ前のところでは神の国がどのように実現するかについての話しがある。福音書の書かれた時代の教会は、イエスが再び来てくれるという再臨の期待を持っていたそうだ。それももうすぐ間近に迫っていると思っていたそうだ。けれども再臨は実際にはなかなか実現せず、そのことに希望を持っていた教会の人たちは不安になっていたようだ。
そういう人たちに向けての励ましとしてルカはこの話をここに載せているのだと思う。再臨はなかなか実現しないけれど、それは神がこの裁判官のように弱い自分達のことに目を向けていないからではない。私たちの叫びをちゃんと聞いて速やかに裁いてくれる、だから信仰を失うことがないようにしましょう、希望を持ち続けましょうということを薦めているのだと思う。
不条理
当時は教会の人たちがイエスの再臨を待ち焦がれるように、社会にいろいろは不正があったようだ。
私たちの現実の世界は不条理がいっぱいだ。力を持った者が支配しているような世の中だ。無実なのに逮捕されて無理矢理自白させられて、裁判でも有罪になって、刑務所に長い間服役した後冤罪だと分かったなんて話しもよく聞く。警察も裁判所もかなり不正があるように見える。
あるいはまた金持ちはどんどん金持ちになって貧乏な若者はどうやっても楽にならないような仕組みがだんだんと出来てきているような気がする。おかしなことが一杯だ。この裁判官のような者が世の中には一杯いるような気がする。
ほおっておかない
世の中の不正がなかなか正されないことをもどかしいと思うけれど、それ以上に私たち自身もいろんな災いや重荷にもどかしい苦しい思いをしている。なんとか助け出して欲しいと神に祈るけれども、なかなか聞いてもらえないと思うようなことも多いのではないか。
そんな時、もう神に見捨てられたのではないか、神に期待しても無駄ではないのかと思ってしまう。祈っても何も変わらない、本当に神は聞いてくれているのか、そんなことを思ってしまう。
そんな私たちに向かってルカは語りかけてくれているような気がしている。神は自分のことしか考えないろくでなしの裁判官ではない、逆にあなたたちのことを大切に大事に思っている。神はあなたたちをほうっておかれることはない、決してほうっておくことはない、大事なあなたたちをほおっておく訳がないと言われているように思う。
そしてそのことを忘れないために、また希望を失わないために祈り続けなさい、神に自分の思いを語りなさいと言われているのではないか。神は大事なあなたたちの声をしっかりと聞いてくれている、だからこそ祈り続けなさいと言われているのだろう。