【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
裁判官
ユダヤ教の指導者はラビと呼ばれて、宗教的なことだけではなく、日常の生活についてもラビに相談に行くことは一般的であった。ラビは律法にそって答えていたそうだ。
ここでは一人の人がイエスに遺産の問題を相談に来たということだ。律法的には長男が土地を継いで、財産も長男が他の兄弟の2倍相続するということになっているようだ。相談に来た人の兄が自分に遺産を分けてくれないから、ラビから言ってほしい、偉い先生から言われたら兄も分けてくれるかもしれないということで相談に来たのだろう。
この人が特に邪な気持ちを持っているというわけでもないように思う。なのにイエスは、だれがわたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのか、なんてことを言ってこの人の依頼を断っている。そして愚かな金持ちの譬えを話したという訳だ。丁度良い機会だからということで話したのかな。
愚かか?
イエスの譬えではある金持ちの畑が豊作だったので、倉を大きくして蓄えたという話しだ。愚かな者よと言われているけれど、何か悪いことをした訳でもなく、たまたま豊作だったので倉を大きくして、これから何年も安心だと喜んだという話しだ。どこが愚かなんだろうか。
読めば読むほどよく分からなくなってきている。何が愚かなんだろうか。
わたしの
何もかも自分のものだと思っているのが間違いだという話しもよく聞く。
献金の祈りでは、私たちが持っているものはみなあなたから頂いたものです、と祈るように、どんなものもみんな神から頂いた、あるいは預かっているものであるのに、それを自分のものだと思っているというところが愚かだというのだろうか。
新共同訳ではこのたとえの中で「わたしの」という言葉を省略しているそうだ。ちなみに口語訳だとこうなっている。
12:17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして
12:18 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。
12:19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
12:20 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。
12:21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。
わたしの作物、わたしの倉、わたしの穀物、わたしの魂というように「わたしの」ということになっているようで、そこを強調しているのかもしれない。
誰かから搾取したわけでも騙して取ったわけでもなく、自分の畑で自分が働いて作ったものが豊作だったわけで、それがどうして愚か者なのかと思う。
それとも財産が増えたことに安心して、これからは食べて飲んで楽しもうとしたことが愚かなことだということだろうか。将来の不安を財産を増やすことで解消できたと考えることが愚かなことなんだろうか。
少し前に老後2000万円問題なんて騒いでいたけれど、貯えがあれば老後の心配もなくなるだろうと思うし、そう思うことは愚かなことなんだろうか。
貪欲
そもそもこの譬えは15節にあるように、どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい、有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないから、ということの説明のたとえのはずだった。
20節までならこの話しはよく分かる。財産をいくら貯め込んでも自分の命がいつ終わるのかはわからない。
このとおり
最後にイエスは「自分のために富を積んでも神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言っているけれど、このとおりとはどういうことを言っているんだろうか。大きな倉を作って楽しもうとしたときに命を取られるということだろうか。財産をいっぱいためたけれど自分では使えなくなるということだろうか。すごい皮肉だなと思う。
神の前の豊かさ
自分のために富を積むことの愚かさを語っているのかな。自分の老後のためとか、自分の安心のために富を積んでも、それは愚かなことと言うことだろうか。
「他の人のために生きる人生だけが、価値のある人生だ。」(アインシュタイン)
多くの人がそういうことを言っている。自分のためだけに生きることの空しさは誰もが経験してきているのだろうと思う。
神の前に豊かになるというのはどういうことなんだろうかとずっと考えている。結局は隣人と共に生きる、隣人を大事にし、愛し合い、支え合いって生きる、それが神の前に豊かになるということかなと思う。
分かち合うこと
こんな話しを思い出した。うろ覚えだけど。
『ゴルフ好きの宣教師がいた。
その宣教師がある日曜日、礼拝をさぼってゴルフに行ったところ、ホールインワンをした。
ある人が神に、どうしてそんな恵みを与えたのですか、と。
神が答えた、「その喜びを誰に話せるのかね。」 』
どんなに嬉しいことが起こっても、それを一緒に喜べる相手がいないとなるとそれはとても悲しいことだ。嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、辛いこと、そんなものを分かち合って生きること、実はそれこそが神の前に豊かになるということではないかと思った。自分だけのために財産を蓄えたとしても、それを自分だけのものにしても、その人生は豊かではないのだろうと思う。
イエスは神を愛し隣人を愛しなさいと言った。それが一番大事なことだと言った。愛し合い、支え合い、分かち合うこと、それはまさに神の前に富むということなのではないかと思った。
愚か者よ
お金がないないと言ってはお金のことばかり心配しているけれど、きっとイエスは愚か者よと言っているんだろうなと思う。お前にも分かち合う相手がいるじゃないか、そのことを忘れているなんて全く愚かだなあ、と笑いながら言ってくれているような気がしている。