【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
分からん
イエスのたとえ話だけれど、何の話しをしているのか、何を何にたとえているのかはっきりしないと言ってる意味も分からない、と思いつつ今日の箇所を見ていて思った。
今日は3節しかなくて、言葉の意味は分かるけれど、実はそれぞれの節の繋がりが分からなくて困っていた。
16節のともし火をともしてそれと隠したりしないなんて当たり前すぎてそれがどうしたという感じだ。
それで問題は17節の隠れているもの、秘められたものであらわにならないもの、公にならないものはないということだけれど、この隠れているものとか秘められたものとは何のことだろうか。
昔誰にも知られずにやってしまった悪いこととか、秘密にしておきたいこと恥ずかしい癖もいつかみんなバラされてしまう、ということかと思っていた。普通そう思うよね?
かつてやらかしてきたこともいずれはバラされてしまうし、ずっと秘密にしておくことなんてできない、だから素直に自分の過ちをきちんと認めなさいよ、と言われているのかと思っていた。
でもそうすると18節が何のことか全然分からなかった。
ともし火
そもそもともし火の光って何のことなんだろうか。
すぐ前の8章4節からのところには種を蒔く人のたとえが出てくる。種まきが種を蒔いたら、道端や石地や茨の中や良い土地に落ちたなんて話しをしていて、その時には11節以下でたとえの説明もしている。種とは神の言葉だと言っている。なのに今日の箇所の説明はない。説明しといてよ。
その流れから言うと、ともし火の光ってのは神の言葉ということかなと思う。そして隠れているものとか秘められているものというのは、昔やらかしたこととか、こっそり行われている世の中の不正みたいなことかと思っていたけれど、そんなことよりも世の中から隠されていた人々のことかという気がしている。
隠れているもの、秘められたものとは、世の中で除け者にされていた人たち、罪人とされていた人たち、価値のないものとされてきた人たち、そんな人たちのことのような気がしてきている。LGBTQの人たちや障がいを持っているとされている人たち、引きこもりの人たちや引きこもらされている人たち、そんな差別されている人たち、異常なものと見られて日陰者にされている人たち、そんな人たちに光が当てられるようになるということかもしれないという気がしてきた。
と言うのも、イエスは律法学者やファリサイ派の人たちのおかしなことはを批判はしているけれど、個人個人の過ちを掘り起こして糾弾しようなんてことはしなかったし、世の中の不正を正して悪を一掃しにきた訳でもないと思う。
イエスはそれよりも、差別され苦しめられ差別されている、そんな人たちに徹底的に寄り添ってきたようだ。自分にはなんの価値もないと思っている人たちのところへ出向き、その人たちの味方となり、徹底的に肯定してきたようだ。
そう思うと、ともし火の光とはイエスの言葉、あるいはイエス自身ということのように思う。イエスの光が日陰者にされていた人たちを照らすということではないかという気がしている。
そしてイエスの光はやっぱり私たちの心の闇も照らしているのだという気がしている。それはかつてこっそりやらかした悪いことでもあるのかもしれないけれど、それよりも私たちが心の奥底でひっそりと持っているしんどい思い、苦しい思い、淋しい思い、そんなところにもイエスの光が届いているということなんだろうと思う。
生きてる内にはいろんな後悔や心配や不安がいっぱいある。誰かに言えれば少しは慰められるかもしれないけれど、誰にも言えずひとりで抱えてしかない辛い思い、どうやって伝えていいのかも分からないような、あるいは伝える術もないような苦しい思い、イエスはそんな私たちの心の闇を照らしている、心の闇に潜むようなそんなつらく苦しい思いにも寄り添ってくれている、そのことを言っているのかなと言う気がしてきている。ちょっと強引な解釈だなとは思うけれど。
聴く
18節のどう聞くべきかに注意しなさいというのはその通りだなと思う。私たちにとっては聖書をどう読むのかに注意が必要だなと思う。
と言っても何が正しい読み方なのかってよく分からない。礼拝のメッセージを聞いて、あの人に聞かせたかったなんて聞き方をしてはいけないなんて話しをよく聞くけれど、聖書も自分に語りかけてくるものとして読むことが大切なんだろうなとは思う。他の人を糾弾するために読むなんてのはきっと間違いなんだろうなとは思う。
それと聖書を教科書みたいに読む必要はないんじゃないかと思う。僕が学校嫌いで勉強嫌いだからというのもあると思うけれど、教会に行き始めた頃、聖書ってマスターしないといけない教科書のようなイメージを持っていた。理解して覚えないといけないもののように思っていた。新旧の聖書を毎日1章ずつ読んだら3年くらいで通読できるような話しもあって、そうしようと思ったこともあったけれど早々に挫折した。
聖書ってゆっくり読んだ方がいいように思う。イエスの声を聴くように読むのがいいんじゃないかなという気がしている。理解するよりも聴くことが大事なんじゃないかな。自分を支える言葉がきっとあると思う。そんな言葉に出会うため、そしてそんな言葉を通してイエスと出会うために私たちは聖書を読むのだと思う。なによりその言葉を通してイエスの愛を感じ、その愛を受け取ること、それこそが聖書を読む醍醐味なんじゃないかなと思う。
持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまで取り上げられる、ってのはやっぱりよく分からない。分かる人、教えて下さい。