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礼拝メッセージより
何者?
イエスは何者なのか。神なのか、それともただの人間なのか、という議論がある。イエスは人であり神であると教えられてきて、よく分からないけどそうなんだろうと思っていた。
神かどうかと問う時、神とはこういうものですという自分が前もっている持っている神という枠にイエスがはまるのかどうかということで判断することになると思う。けれど最近は、神であるかないか判断できるほど神というものを知っていない、分かっていないなあということに気が付いた。
戸惑い
今日の聖書には洗礼者ヨハネが登場する。ヨハネが悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたことが書かれていて、イエスもヨハネからバプテスマを受けた。かつてヨハネはイエスの先生のようなものであったようだ。しかしそのヨハネはガリラヤの領主ヘロデを批判して牢屋に閉じ込められたと書かれている。
ヨハネはその後イエスのうわさを聞いたのだろう。そこで牢の中からだろうか、イエスのもとへ弟子たちを送って、来たるべき方はあなたなのかと尋ねさせたという話しだ。
ルカによる福音書3章を見ると、ヨハネは悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと言い、罪の赦しを得させるバプテスマを受けるようにと言っていた。そして15節以下には、「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」とあって、自分の後にメシアがやってくる、そしてメシアというのは、強い力を持って世を裁く、悪者を懲らしめ世の中から不信仰な者を一掃すると考えていたようだ。だから裁かれないように悔い改めよと言っていたわけだ。
ところが噂に聞くイエスは、そんなヨハネが考えるメシアとはかけ離れていたようだ。イエスは裁かれるであろう罪人のところへ出向き、貧しい人達を憐れんでいた。ヨハネはイエスの評判を聞き、自分でもイエスに魅力を感じていたのかもしれないけれど、しかしそれは自分の思い描いていたメシア像、キリスト像とは違っていたのだろう。
問い
そこでヨハネはイエスのもとに自分の弟子を派遣してイエスに問いかける。来るべき方はあなたなのですか、あなたはメシアなのですかと。
イエスはその問いに、そうだとも違うとも言わない。ただヨハネの弟子たちに、自分で見聞きしたことを、つまりイエスの周りで起こっている出来事を伝えなさいと言った。それは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」そのことをヨハネに伝えなさい、と言うのみだ。そして「わたしにつまずかない人は幸いである」とも。
このイエスの答えは、イザヤ書にある言葉「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。」(イザヤ書35:5-6)になぞらえたようにも聞こえる。
メシアだったら従おうとか、メシアじゃないなら従わないというように、メシアという称号が付くかどうかで判断してほしくなかったんだろうと思う。そうじゃなく生身の自分を知ってほしい、生身の自分と出会って欲しい、イエスはそう願っているんじゃないだろうか。だから自分はメシアだとも、メシアじゃないとも言わなかったのじゃないだろうか。
大きい者
その後イエスはヨハネについて語る。ヨハネのことを女から生まれた者の内最も偉大な者だと言う。彼は律法をきっちりと守ったようで、それはファリサイ派の人たちからも憎まれ口を叩かれるほどのものだったようだ。また彼と弟子達は政治的に影響を及ぼすよな集団ともなっていたらしい。
しかしそのヨハネも、神の国で最も小さい者でも彼よりは偉大である、と言われる。どういうことかよく分からないけれど、神の国ではこの世の基準ではない新しい基準があるということかな。業績や立派さということに関係なく、誰もが大事にされる、誰もが大きい者とされる、神の国とはそういうところだということかな。
非難
30節にはファリサイ派とか律法の専門家という人たちの名前が出てくる。どうやらその人たちはヨハネもイエスも批判していたようだ。33節を見ると彼らはヨハネのことを、「あれは悪霊に取り憑かれている」と言い、イエスのことを「見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言っていたようだ。
ヨハネが禁欲的であれば悪霊につかれたといい、イエスが自由に振る舞えば大食漢で大酒のみだという。どんなすばらしいことが起こっても、どんな神業が起こっても、非難しようと思えばできてしまうということだろう。
今の時代がそれだ、とイエスはいった。笛を吹いたのに踊ってくれない、葬式の歌を歌ったのに泣いてくれない、何があっても心奮わすことがない、そんな時代だという。
心で触れる
神の出来事が起こっている、神が招いている、なのに非難をするばかりでいる。自分に語りかけられた言葉に対してもそれを非難の対象にしてしまうことがある。それが私たちの姿でもあるのかもしれない。
自分に語りかけられた言葉も心の中に入れていないということだろうか。これは良い言葉だ、実にすばらしいと評価したとしても、もしその言葉が心に入っていなければ感動はないだろう。
どんなにいいワインでも、その良さの説明をいくら聞いても、飲まなければ酔えない、なんて話しを聞いたことがある。どれほど美味いと聞かされる料理でも、テレビで見るだけでは味わえない、感動もできない。
イエスが関わっていた人達のことがここで書かれている。それは目の見えない人、足の不自由な人、らい病を患っている人、耳の聞こえない人、死者、貧しい人、イエスはそんな人達と関わり、そんな人達と生きてきたということだ。
罪人だと言われ、穢れていると言われ、社会から除け者にされ、近寄るな、穢らわしい、役立たずと言われていた人達だ。イエスはそんな人達をいやしてきたと書かれている。イエスがそういう人たちに寄り添い、そういう人たちを大切にし、いたわり、受け止めていたということだろう。そこで自分の価値を見出して元気になっていったということなのだろう。それが彼らにとってはまさに癒しでありよみがえりだったのだろうと思う。
それはこの人たちはイエスに触れ、イエスの言葉を聞いていた。しかしそれはメシアかどうか、神かどうかというような、批評するような目で、半ば距離を置いてではなく、言わばイエスに直に触れて、イエスの言葉を心で聞いたのだと思う。そうすることでこの人たちは癒され、慰められ、元気になっていったのだと思う。
エレミヤ書15:16にこんな言葉がある。「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。」
イエスの言葉もそれを食べて味わわなければ身に付かない。もっと食べる必要があるのではないか。イエスの言葉を食べるとは、イエスの言葉を心で聞くということだと思う。心で聞くことで、私たちの心も喜び躍ることができるのだと思う。