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礼拝メッセージより
屋根
当時のユダヤ地方の家は、普通部屋がひとつだけだったそうだ。そして屋根は材木の梁と木の枝を編んだものと、粘土の覆いからなっていた四角い箱のような家だったそうだ。毎年秋には雨期になる前の修理をしないといけないということで、家の外には屋根に上がるための階段がついているものが多かったようだ。
多分この時の家にもそんな階段がついてあって、この4人の男たちは屋上に登り、粘土をはがし、木の枝を取り、大きな穴を空けたのだと思う。「イエスがおられるあたり」の屋根を剥がしたのだから、当然粘土や木の枝や小さなくずがイエスの頭に降ってきたことだろう。
それにしても人の家の屋根に勝手に穴を空けるなんて、滅茶苦茶なやり方だ。イエスの話しを一所懸命に聞いている最中にそんなことされたら、他の人達にとってはとても迷惑なことだっただろう。何よりそこの家の人にとっては自分の家を壊されるという結構迷惑な行為だったに違いない。最も毎年修理するような屋根ならそれ程でもなかったのかもしれないけれど。
罪
イエスの中風の人への言葉は「人よ、あなたの罪は赦された」というものだった。突然、何を言いだすのか、といった感じがする。これを聞いた律法学者が「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と言ったと書かれている。
当時病気は罪の結果であると考えられていたそうだ。罪そのものは勿論見えないけれど、病気であるということは罪があるということの証拠であったようだ。
中風の人を連れて来た人達の思いは病気を治して貰うこと、少しでも楽にしてもらうことだったのだろうと思う。しかしイエスの第一声はあなたの罪は赦されるというものだった。その後に起き上がれと言って病気を癒した。
イエスは罪は赦されたと言うのと起きて歩けと言うのとどちらが易しいか、なんて言っているがどっちが易しいのは未だにわからない。
病気は罪の結果であるということからすると病気と罪は同じことがら、コインの表と裏のようなもののような気がする。罪が赦されれば病気は治り、病気が治れば罪がなくなったということになる。もしそうであるならば罪が赦されるということと起きろということとは結局同じことを言っているということになりそうだ。
信仰
男たちはどんな気持ちでこんなことをしたのだろうか。何も書いてないので想像するしかないけれど、不思議な力で病気を治している人がいるという噂を聞いて、この機会を逃したらいつイエスに会えるか分からない、もう二度と会えないかもしれないという思いがあったのだろうと思う。
イエスがキリストであるとか救い主であるとか神の子であるというような、所謂信仰心を彼らが持っていたかというとそんなのはほとんどなかったんじゃないかという気がする。ただただその人を元気にして欲しい、だから治るかもしれないという可能性があることは何でも試してみるというような気持ちだったんじゃないかと思う。
しかし福音書はここでイエスはこの人達の信仰を見たと書いてある。そう書いてあるからこの人たちには信仰心があって、屋根を壊してでも病人を連れてくることが信仰的な正しい行いだと思っていた。
ある人の説教で、この四人の行為は非常識な行為だと書いてあった。また信仰を見たのはイエスだった、イエスにしか見えないものだったと書いてあった。よくよく考えるとというか普通に考えるとこれはとても非常識な迷惑な行為だなと気付いた。
人間的に見れば信仰なんてどこにも見えない行為の中に、イエスだけは信仰を見ているということのようだ。ただただ治して欲しい、イエスならできるかもしれないと思いに対して、イエスはそれを信仰だと認めたという話しかもしれないと思う。
そう思うと福音書には似たような話しが結構あるように思う。
ルカによる福音書8章43節以下のところに、12年かも長血をわずらっていて、その治療のためにお金もなくなったけれども治らずにいた女性の話しが出てくる。その人が群衆にまぎれてうしろからこっそりイエスの衣にさわったところ病気が治った。するとイエスは誰がさわったのかと言われ、震えながら自分がさわった訳を語った。その女性に対してイエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と答えた。
この女性は気付かれないようにこっそりさわれば、もしかすると治るかもしれないという気持ちだったのだろう。イエスだったら絶対治してくれるという確信なんてなかったのだろうと思う。確信があれば、もっと堂々と正面から治してくれと頼みに行ったのではないかと思う。
こっそりさわって治れば儲けもの、治らなくても何も損はないというような、ちょっと姑息な手段だったように思う。ところがイエスはその女性に、あなたの信仰があなたを救ったと言うのだ。
それが信仰なのかと、そんなものを信仰と言うのか、とても信仰だなんて言えないだろうと思うけれど、それをイエスが信仰だと認めたということのようだ。
イエスは、神の国はからし種やパン種に似ている、やがてびっくりする程大きくなるというようなことを言っている。(ルカによる福音書13:18-21)
イエスは自分に頼ってくる小さな思い、助けを求めるほんの小さな思いに対して、それがあなたの立派な信仰だと認め褒めているようだ。
信仰が大事だ、揺るがない信仰心を持つことが大事だというようなことを聞くことがある。けれど自分にはとてもそんな信仰心はない、こんな小さな信仰では駄目だと自分を否定することが多いのではないか。しかしイエスはいつも、イエスに助けを求める小さな思いを、あなたの信仰だ、立派な信仰だと繰り返し語っているように思う。
すばらしい
この世の中否定的な言葉が満ちている。そんなことでは駄目だ、まだまだ駄目だ、ほらまたしくじった、やっぱりお前は駄目だ、小さいときからたびたびそんな言葉を聞かされてきたように思う。そして何かある度にそんな言葉が心に響いて自分でも自分を責めて、罰して、自分を否定することが多い。
お前には無理だ、出来るはずがない、そんなにうまくいくはずがない、どうせ失敗するに決まっている、世の中そんなに甘くない、という言葉が私たちの自信をなくし、私たちの心に劣等感と空しさを植え付ける。もっともっと頑張らなければ駄目だ、そんな言葉が追い討ちをかけて自分を苦しめる。そしていつしか、わたしにはできない、やっぱりわたしは駄目なんだ、そんな気になる。
気がついたら何もする気力もなくなり、自分の体も全く動かなくなって、がちがちになって身動きとれなくなってしまう。まるで何かに心も身体も縛りつけられて、ここに出てくる中風の人のように自分ではまったく動けなくなってしまう。
まさにそんな私たちに向かってイエスは「あなたの罪は赦された、起きて歩きなさい」と言われているのではないか。
『肯定による安心』
宗教は何を与えようとするものなのでしょう。柔和で寛容な人格や、厳しく誠実な反省でしょうか。正義を求める行動や、献身的な奉仕でしょうか。暮らしは低く思いは高い生活態度でしょうか。そういうこともありましょう。しかし、宗教が本当に与えようとしているものは安心なのです。ただしそれは、金とか健康といった安心を支える材料を与えるという意味ではなく、そういう材料のあるなしに関係の無い、人生の最深層からの肯定にこそ安心はあることに気付かせるという意味です。人生はどんなに悲惨であっても肯定されています。
『福音はとどいていますか』 藤木正三
昔見たある映画で、妹の野球の試合を見に行った兄が、妹がバッターになった時に応援をする場面があった。「大丈夫だ、打てる、お前は天才だ。」
イエスも言っているのではないか。「大丈夫だ、心配するな、お前は天才だ、出来る、絶対に出来る。」そんな風に言っているのではないか。
あなたの罪は赦されたというのは、そういう風に神から肯定されているということなんだろうと思う。
人生には思うようにいかないことも多いし、どうして自分はこんなに駄目なのかと嘆くことも多い。
けれどもイエスは私たちの心の奥底で、あなたは駄目じゃない、あなたはすばらしいと言ってくれている。徹底的に肯定してくれている。そのイエスの声を聞いていこう。