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礼拝メッセージより
誘惑
イエスはバプテスマを受けたあと、聖霊に満ちてヨルダン川から帰った。そして荒れ野で悪魔から誘惑を受けたと書いてある。40日間何も食べないでいたら空腹になったらしい。
ところでこの「人はパンだけで生きるものではない」というところは、マタイもルカも4:4で、しかもマタイは4P、とある有名な牧師が嬉しそうに言っていた。
荒れ野
イエスは荒れ野の中を霊によって引き回されたと書いてある。
イスラエルには町の郊外に行くと、大きな岩がごろごろして草木もほとんど生えていない荒れ野が結構すぐ近くにあるそうだ。そして荒れ野とは、神に敵対する勢力、すなわち悪魔の住む所と考えられていたそうだ。
そしてそこに40日間いたとあるけれど、聖書では40というのは苦難と試練を示す象徴的な数字である。大変な試練にあったということを言いたいのだろうと思う。
ところで面白いことにイザヤ書40:3には「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」という言葉があって、メシアは荒れ野からやってくるという考えもあったようで、イエスは旧約聖書で約束されたメシアであるということも言いたかったのかなとも思う。
神の子なら
その悪魔の誘惑は空腹になったイエスに対して、石にパンになるように命じて見よ、というものだった。またわたしを拝めば国々の権力と繁栄を全部与えるというもの、そして神殿の屋根の端から飛び降りてみよ、神の子らなら天使たちが支えるだろうというものだった。
神の子ならば石をパンに変えることも、全世界の権威を持つことも、屋根から無事に飛び降りることもできるはずだ、やってみろ、神の子なんだからやってみろ、それでこそ神の子だろう、それが悪魔の誘惑だったようだ。
しかしそれに対してイエスは、いずれに対しても聖書の言葉を用いて返答している。「人はパンだけで生きる者ではない」というのは申命記8:3。「あなたの神である主を拝み、ただ主にのみ仕えよ」は申命記6:13、「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6:16の言葉だそうだ。
神の子であることを高らかに宣言し、その力を見せつけてみろというのが悪魔の誘惑だった。けれどもイエスはその悪魔の誘惑にはのらなかったというのだ。
イエスが申命記の言葉で悪魔に答えたように、私たちも聖書の言葉をしっかりと持って悪魔の誘惑に負けないようにしましょう、というような話しなのかと思っていた。
けれども今回この箇所を読んでいるうちに、この悪魔の誘惑というのは私たちの願いそのものではないかという気がしてきている。
石をパンに変えて欲しいとは言わないまでも、食べ物に困らないように守って欲しい、食べ物以外にもあれもこれも欲しいものをなんでも買えるような財産を与えて欲しいと願う。
またいつも言ってるように、この教会に人をいっぱい導いてくれて大きな教会にして欲しい、そうしたらすごい牧師だと褒めてもらえるだろうとか、そしたら偉そうな顔できるななんて思う。
あるいはまた、屋根から飛び降りても天使から守ってもらうような、誰もがびっくりするような奇跡を起こせる力とか、病気を治せる力とか、そんな力をイエスが与えてくれたら、それこそ教会がいっぱいになるんじゃないか、なんてことも期待したりしている。
神の子なんだから、キリストなんだから、何だって出来るじゃないのか、地位も名誉も財産も与えてほしい、どうして私の願いを聞いてくれないのか、いつになったら与えてくれるのかなんてことをよく思う。でもそれってまさに悪魔の誘惑と同じことを言っているんじゃないかという気がしてきている。
そうじゃない
イエスは旧約聖書の言葉で答えて悪魔の言うとおりにはしなかったと書いてある。
ユダヤ人は、メシアとはかつてのダビデ王のように敵を倒し権力を持って敵をやっつけて自分達の国を再び強い国にしてくれる者だと期待していたようだ。
私たちも神というものに対して似たようなイメージを持っているのではないかと思う。強い力で世界を支配し、華々しい奇跡を行ってみんなをアッと言わせて、悪い奴等をやっつけてくれるはずだと思いがちではないかと思う。
神の子なんだから神の子らしくしたらどうですか、それでこそ神の子でしょう、神の子なんだからそうすべきでしょうと思うのではないか。
そうじゃないぞ、キリストの姿はそうではないぞと福音書は告げているように思う。イエスは私たちが勝手に想像するような神ではない、私たちが勝手に期待するような神の子ではない、ユダヤ人たちが勝手してきたようなメシアではない、福音書はそのことをまず最初に語っているような気がしてきている。
神の子なら、キリストならこうするはず、というような勝手なイメージではなく、この後に書き記すイエスの姿を見て欲しい、イエスの声を聞いて欲しい、イエスの生き様を見て欲しい、弱々しい姿に見える、しかしいつまでもどこまでも弱い私たちを徹底的に肯定し、徹底的に受け止め、どんな時にも共にいる、そんなイエスの真実を知って欲しい、そこにこそ救いがある、福音書はそう訴えているのではないかという気がしてきている。
私たちはイエスの本当の姿が見えているでしょうか。