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礼拝メッセージより
天使
子供達が教会の幼稚園に通っていて、クリスマスになるとページェントをしていた。マリアとヨセフと天使と博士と羊飼いと宿屋の主人などが登場してにぎやかなクリスマスって感じだった。
聖書のイエスが誕生するまでの箇所には天使が登場したり、マリアやエリサベトがかっこいい言葉を喋ったり、光輝くようなイメージがある。
でもちょっと気にかかる言葉もある。マリアに対してガブリエルは「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(1:31-33)と言ったとある。
彼に父ダビデの王座をくださるとか、彼は永遠にヤコブの家を治めその支配は終わることがない、という言葉にひっかかっている。かつてのダビデのように偉大な王としてイスラエルを治めると言っているようだ。
またマリアがエリサベトに会いに行ったときに語ったマリアの賛歌のなかには、「その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(1:54-55)という言葉がある。
アブラハムの子孫であるイスラエルを憐れむのだと言っているようだ。
ユダヤ人たちはかつてのダビデ王のような偉大な王が現れて、イスラエルを再び強い国にしてくれる、そんな救い主、キリストがやってくるというような期待を持っていたらしい。
福音書の中のイエスが誕生する前の記事を見ていると、そんなユダヤ人たちの期待するような救い主、つまりイスラエルを強い国にして引っ張っていく、光輝く力強い救い主が生まれるのだ言っているように感じる。
ベツレヘム
そして今日の聖書では救い主であるイエスの誕生の様子が書かれている。
当時ユダヤ地方はローマ帝国の支配下にあったわけだが、ローマの住民登録は現在住んでいる場所で行うものだったそうだ。住民登録はきちんと税金を取るためにするものであって、当然現住所でしないと先祖の土地で登録なんてしたらただただ混乱するだけだ。また当時は家父長制の強い時代だったので家長だけが登録すればよかったそうだ。
ベツレヘムで生まれるというのは、旧約聖書のミカ書5章1節に「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの士族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」という言葉があったり、また救い主はダビデと同じようにダビデの生まれ故郷でもあるベツレヘムで生まれるはずだと言われていたそうで、そんなことからイエスはベツレヘムで生まれたという話しが伝わっていたのだろうと思う。
ルカはそんな話しも踏まえつつ、イエスがベツレヘムで生まれたと書くことで、イエスは救い主だ、旧約聖書の時から預言されていたキリストだ、ということを言いたいのだと思う。
飼い葉桶
しかしその救い主と言われるイエスが飼い葉桶に寝かされたとある。ルカは宿屋には泊まる場所もなく子どもは布にくるんで飼い葉桶に寝かせたと書いている。よくイエスは馬小屋で生まれたという風に言われるけれど、実際聖書には馬小屋とか家畜小屋という言葉は出てこない。ただ飼い葉桶という言葉が出てくるだけだ。飼い葉桶があるということから家畜小屋だろうということになるけれども、家畜の餌を入れる飼い葉桶に寝かされたというのだ。救い主なのに。
羊飼い
そしてイエス誕生の知らせを最初に伝えられたのは羊飼いたちだったと書いている。その頃ユダヤの地方では羊飼いは落ちこぼれた人達と見られていたそうだ。羊飼いという仕事は当時はまっとうな仕事とはみなされていなかった。羊飼いは人口調査の対象にもならず、税金を支払う能力もないと考えられ、一人前の人として認められていなかったそうだ。
羊飼いは各地を転々として羊を放牧するため、決まった時に神殿に行き献げ物をすることが出来ないとか、あるいは安息日などの律法を守れないということで宗教的な面からも社会の落ちこぼれと見られていたそうだ。
しかしこのルカによる福音書によると、イエスの誕生を最初に知らされたのはそんな羊飼いたちであったというのだ。社会からのけ者にされている者たち、社会からつまはじきされている者たち、言わば落ちこぼれの代表であった羊飼いたちにキリストの誕生は真っ先に知らされたというわけだ。
それはまさにイエスの生き様を表しているようだ。イエス自身、お前は私生児だと蔑まれ差別されて生きてきたのかもしれない。そしてそんな差別される側の人達と共に生きた。周りから駄目人間の烙印を押され、自分でもこんな自分は落ちこぼれで何の価値もない人間だと思っている、そんな人達と共に生きてきた。羊飼いはまさにその象徴でもあるように思う。
イエスに会った羊飼いたちは喜び、讃美しながら帰っていったと書かれている。それはとても面白いと思う。イエス・キリストに会うことで彼らの状況が変わったわけではない。何も変わっていない。強くなったわけでも立派になった訳でも有名になったわけでもない。しかし彼らは喜びを発見したというのはとても面白いと思う。
私たちが神に願うことは、自分の願いを叶えて欲しいということではないか。あれもこれもしてほしい、金持ちにして欲しい、元気にして欲しい、地位も名誉も欲しいと願う。そして叶ったら喜べると思っている。
しかし羊飼いたちはイエスに会ってもことさらに何かを求めることもなかった。しかし自分の人生に神が関わっておられること、自分のことをしっかりと見つめてくれていると知ったこと、ひとりぼっちではないことを知ったこと、それが彼らにとってはなによりの喜びだったというのだ。
ひとりぽっちじゃない
人生はなかなか思うようにいかないなあと思う。なかなかというより全然と言った方がいいのかも。いい成績を取っていい学校へいって、いい仕事について、良い人と結婚して、という風に順風満帆に進むことを目指してその通りにいくことがいい人生だ、と何となく思っている。
そうならなくて躓いて落ちこぼれるのは失敗の人生だというような気持ちがある。でも人生というのはそうそう思うようにいかない。躓いたり失敗したりすることがある。一度の躓きや失敗で落ちこぼれるとしたら、この世は落ちこぼれの集まりのような気がしている。
自分の躓きや失敗以前に、生まれながらにして大変さを背負っている人もいるように思う。障がいを持って生まれてきた人、愛してくれない親のもとに生まれた人、貧しい家庭に生まれた人、あるいは周りから差別の目で見られている家庭に生まれた人などは、生まれながらに落ちこぼれの烙印を押されているような思いでいるのではないかと思う。どうしてこんな身体に生まれたのか、どうしてこんな家に生まれたのか、どうしてこんな親の元に生まれたのか、そんな風に思う人もいっぱいいると思う。
いろんな重荷を背負って生きている私たちだ。しかしそんな重荷を負って苦労している、そして除け者として隅に追いやられている、そんな私たちのところにイエスはやってきた、弱い小さな赤ん坊として生まれて来た、不条理の中で苦しみつつ悩みつつ生きている、そんな私たちの真ん中に生まれてきた、聖書はそう告げているように思う。
イエスは不条理を背負って弱い小さな人間として生まれてきた。そして同じように不条理を背負ってひとりぼっちで生きている、そんな私たちといつも一緒にいてくれている。
そのイエスを私たちの心の中に受け入れること、そのイエスの愛を、熱い思いを受け止めること、それがクリスマスなのだと思う。
これが救い主?これで救い主?と思う。しかしイエスの生き様、イエスの姿こそ救い主の生き様、救い主の姿なのだ。