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礼拝メッセージより
マリアの賛歌
47節以下にマリアの賛歌と言われる歌があるが、ラテン語訳聖書の最初の言葉をとって、マグニフィカートと呼ばれている。ここは旧約聖書サムエル記上2:1-10にあるハンナの讃歌に似ていて、そのハンナの賛歌や他の旧約聖書の影響も受けてまとめられているそうだ。
そのハンナの夫エルカナには二人の妻があって、一人はハンナでもう一人はペニナという人だった。ペニナには子供があったけれどもハンナにはなかなか子供が生まれず、それがハンナにとって悩みの種だった。どこかで聞いたような話しだ。なかなか子供が生まれないというのは聖書では一つのモチーフになっているみたいだ。
やっと子供が生まれ、その子を祭司に託す時の祈りがハンナの賛歌といわれるものだ。
「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」(サムエル記上2:1-10)
実際こんな祈りを始めたらどうしたのかと心配してしまうと思うけれど、きっとこれは当時の聖書をまとめた人たちの信仰告白みたいなものなんだろうと思う。
マリアの賛歌と似てる?。「弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる」というようなところは似てるのかな。
マリアの賛歌も実際にこんなことを言った訳ではなく、福音書が書かれた当時の教会でまとめられていた賛歌、信仰告白のようなものだったのだろうと思う。
突然の出来事
マリアはヨセフと婚約していたけれども聖霊によって妊娠したと書かれている。はっきりしたことは分からないけれど、いいなずけであるヨセフではない誰かとの子どもを妊娠してしまったようだ。
だとすると期待されない妊娠で、マリアはとんでもない重荷を負うことになったことだろう。
1章26節以下の所では天使ガブリエルがマリアのところに来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。あなたは神から恵みをいただいた。」なんて言っているけれど、そしてマリアも「お言葉どおり、この身になりますように」なんて言っているが、しかし実際にはそんなこと簡単に言ってられるような状況じゃなかっただろうなと思う。
そして生まれてきたイエスも、伝道活動を始めてからもマリアの子だとか、大酒飲みだとか大食漢だと言われているけれども、私生児だということで苦しい境遇の中で、そして周りからの嘲りの中で育ってきたということかもしれない。
聖書にはイエスが差別されたり虐げられていた人達に寄り添い、その人たちを大事にして共に生きてきたことが書かれている。それは自分も同じような苦しい境遇の中にあって苦しい思いをしてきて、だからこそそういう人達の気持ちもよく理解できていたから、共感できていたからこそ、弱い立場の人たちに寄り添って生きてきたということかもしれないなと思う。
低く
またこマリアの賛歌は神が私たちとどう関わってくれているのかということを伝えているのだと思う。
神はいわゆる立派な人ではなく、卑しい者、無名の者、低い者を選ぼうとした、その結果としてマリアが選ばれたということになのだろう。誰も目を留めないような取るに足らない者を、神はしっかりと見ている、気にかけて心配している、その現れがこのマリアであったということなんだろうと思う。
48節に「身分が低い」ということばがある。この言葉は卑しいとも訳される、価値がないという意味の言葉だそうだ。神がマリアを選んだということ。それは神がこの世のいやしい者を決して見捨てない、そういう者と共に歩もうと決意したということだ。
自分のことを卑しく価値のない人間であると思うということはとても苦しいことだ。しかしそんな、自分には何の価値もない、自分の人生には何の意味もないと思っている、まさにその人のことを神はしっかりと見つめている、そのことを伝えるために当時の教会はハンナの賛歌を参考にして、マリアにこの言葉を語らせているのだと思う。
逆転
さらに「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力あるものを、その座から引き下ろす」とある。
イエスは低いところに生まれた。いやしいマリアのところに生まれた。そしてどこまでも低いものと共にいようとした。十字架につけられるまで、低い者と共にいた。何の取り柄もないような、なんの価値もないような、罪にまみれている者と共にいた。そんな小さい者のことに神はいつも目を注いでいる。マリアの賛歌はそのことを伝えているのだろう。
イエスはこの世の価値の大逆転を起こす、この世の価値観をひっくり返すと言っているようだ。一番大きな大逆転は、自分は駄目だ、無価値だと自分を卑下し、自分を責めている者に向かって、決してそんなことはない、あなたは価値があるのだ、あなたが大事なのだ、とイエスが告げていることだろうと思う。イエスはそのために生まれて来た、そのことをマリアの口を通して伝えているのだと思う。
幸せとは、立派になって物をいっぱい持って何不自由なく、そして病気もせずに元気に暮らすことのように思っている。そうやって将来の不安も心配もなく暮らせることが幸せのように思っている。けれど実はそんな不安や心配や病気がないことが幸せなのではなく、不安も心配も病気もあるけれど、そんな自分のことを心底心配してくれている方がいるということを知ること、神が自分のことを心配しているということを知ること、それこそが幸せなのだと思う。
神は元気のないものに、元気がなくてもいいんだよ、と言ってくれているように思う。落ち込んでる者に向って落ち込んでていいんだよ、と言ってくれているように思う。きっと神は、元気がなくても落ち込んでいてもあなたを私は決して見捨てはしない、あなたといつも共にいるんだ、と言われている。
そして神はそんな風に私たちを憐れんでくれていて、その憐れみを忘れることはない、と約束しておられる。神は私たち一人一人のことを憐れみ続けると言われるのだ。
祝福
そもそもマリアはエリサベトのところまで何をしに行ったのだろうか。すぐ前の箇所ではお言葉どおりこの身になりますようにと言ったと書いてあるけれど、なにもかも納得して不安も何もない、なんていうわけではなかっただろうと思う。実際には思わぬ妊娠にどうしていいかわからず、案外逃げるようにエリサベトのところへ行ったのではないだろうか。
そんなマリアに対してエリサベトは、あなたは祝福された方、胎内のお子さまも祝福されていますなんて言っている。
神の子を産むなんて言われても単純に喜べないだろう。たとえそう言われたとしても不安だらけになるに違いないだろうと思う。でもあなたは祝福された方と言っているのだ。これが私たちに対するメッセージなのではないかという気がしてきている。
思うようにいかないことが多く、また先が見通せないで不安ばかり、そして自分のことを嘆くことばかり多い私たちだ。でもそんな私たちに向かって、あなたは祝福されています、と聖書は告げているような気がしてきている。
一体この自分のどこに祝福があるのかと思う。良いことなんて何もないじゃないかと思う。けれども、あなた自身気付いてないかもしれないけれど、でもあなたは祝福されているんですよと言われているような気がしている。
イエスは私たちにそんな神の祝福を、そして愛を届けるために生まれて来てきてくれたんじゃないだろうか。