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礼拝メッセージより
クリスマス
クリスマスはクルシミマスと毎年言ってますが、本当に苦しみます、って感じがしている。毎年毎年クリスマスがやってくるけれど、イエスの誕生に関する聖書の箇所は少ししかない、だから牧師は大変だ、とどこかの牧師が書いてたような気がします。同じ話しばかりしておけば楽なのかもしれないけれど、そうもいかないし。しかも最近少し本も読んで聖書そのものの読み方というか受け取り方が変わってきていて、それをどう伝えたらいいのか悩んで苦しんでいる。
聖書だから書かれていることは全部正しい、事実なんだという読み方もあるだろうけれど、昔はそう思っていたけれど、そうじょなくて飽くまでも人間が書いた物だし、昔の時代背景や昔の世界観、宇宙観の下に書かれた物であって、そんなことも考慮して読まないと変なことになると思うようになっている。何を伝えようとしているのだろうかという思いで読んでいるけれどなかなか大変で苦しんでいるクリスマスを迎えている。
受胎告知
今日の聖書は受胎告知と言われる箇所だ。マリアの下へ天使ガブリエルがやってきてイエス誕生を予告したという話しだ。
天使はマリアに、あなたは身ごもって男の子を産む、イエスと名付けなさい、その子はダビデの王座についてヤコブの家を治める、なんてことを言う。
マリアは、どうしてそんなことが、まだ男の人を知らないのに、なんて言う。すると天使はこれは聖霊による出来事だ、その子は神の子とよばれる、年老いている親類のエリサベトだって身ごもっている、神にできないことは何一つない、なんて答える。マリアはそれを聞いて、お言葉どおりこの身になりますように、と言ったという話しだ。
聖霊によって?
最初にクリスマスの記事、イエス誕生の記事が聖書には少ないと言ったけれど、それはマタイによる福音書とルカによる福音書にしかない。最初に書かれたマルコによる福音書にはイエス誕生の記事は何もない。マルコによる福音書が書かれたのはイエスの十字架から30年か40年位経ったころらしいけれど、その頃でもまだ教会の中でもイエス誕生の話しがまとまっていなかったということらしい。勿論それ以前に書かれたパウロの手紙の中にもイエス誕生の話しは出てこない。
実はイエス誕生の詳しい話しは本当はよく分かっていないんだと思う。クリスマスの記事はマルコによる福音書が書かれて後にまとめられた物語なんだと思う。もちろん全てが作り話しというわけではないだろうけれど、マルコの時代までに伝わっていた情報はとても少なかったんじゃないかと思う。
よくマリアが処女で妊娠したと言われているけれど、というかかつて僕もそんなメッセージをしてたと思うけれど、何年か前に女性連合が出している『世の光』にも書いてあったことだけれど、マリアは非合法な婚外妊娠をしたけれど福音書では聖霊によるものと強調することで婚外妊娠と言うことがぼかされて、やがて2-3世紀の教会の指導者が処女妊娠がふさわしいと言うようになってきてそれが定着してきたということらしい。
ユダヤ教ではもともと子どもは男と女と聖霊の働きによって産まれると言われていたそうで、聖霊によってと書かれていても男は関係なく聖霊の力だけで産まれたなんてことを考える必要もないそうだ。
また、これはマタイによる福音書の方だけれど、『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である』(1:23)という中に『おとめ』という言葉があって、これはイザヤ書からの引用の言葉だけれど、そもそも原文のヘブライ語の言葉自体は若い女の人のことではあるけれど、処女であるという意味はないそうだ。後に旧約聖書のギリシャ語訳というのができて、その時に訳した言葉には処女というような意味も含む言葉に訳したために処女降誕という話しになっていると聞いたこともある。
勿論はっきりとしたことは分からないけれど、どうやらマリアは婚外妊娠をして、イエスはそうして産まれてきたということらしい。
またマルコによる福音書6章の初めに、イエスがナザレで受け入れられないという話しがのっている。イエスが故郷に帰って安息日に会堂で教え始めたところ、そこにいた人達が、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と言ってイエスにつまずいたと書かれている。イエスのことを「マリアの息子だ」と言った。誰それの息子だ、なんて時は普通は父親の名前を出すそうで、敢えて母親の名前を出したのはお前は私生児だと言うような軽蔑した蔑んだ言い方だったらしい。ということは故郷では誰もがそのことを知っていたということらしい。
どうして
特別な子どもが生まれる前にそれを天使から告げられるということは旧約聖書に度々出てくる。また歴史上偉大な人物は処女から生まれたと言われるている人も多くて、300人以上もいるそうだ。あるいはいろんな神話の中にも救世主と言われる神が処女から生まれたと話しがいっぱいあるそうだ。
ということはクリスマスの記事は実際に文字通りこんな出来事があったということではなく、後々にまとめられたルカや教会の信仰告白のようなものなのではないかと思う。
ルカはイエスはそんな特別な子どもとして、救世主として生まれた、イエスはキリストなんだということを言いたい、伝えたいということなんだと思う。
マリアもここに書かれているように信仰深かったかどうか疑わしいと思う。マリアが理想的な女性というわけでもないだろう。マルコによる福音書を見るとマリアは何人もの子どもを生んで育てたおっかさんだったようだし、イエスが弟子たちを引き連れて伝道を始めるとわが子の気がおかしくなったのだと思って連れ戻しにきたなんてことも書かれている。マリアは聖人でも聖母でもなかったであろう。特別私たちと変わったところもない普通の人間であったのだろう。むしろ婚外妊娠をしたことで思わぬ苦労を背負い込み、疑ったり、恐れたりするような弱い普通の人間であったのだろう。
しかし信仰深い女性からではなく、普通の女性からキリストが生まれたということの方が余計に凄いことのように思う。
いつも共に
天使はマリアに「主があなたと共におられる。」と告げたと書かれている。マタイによる福音書の誕生物語の中には、その名はインマヌエルと呼ばれる、それは神は我々と共におられるという意味だと書かれている。
どちらの福音書にも、イエス誕生の物語の中で神が共にいるという言葉を伝えている。これこそが福音書をまとめたマタイとルカに共通するクリスマスのメッセージのように思う。
そしてそれが彼らがイエスから受け取ったメッセージでもあったのではないかと思う。名もない田舎の名もない女性、そして婚外妊娠という重荷を背負ってしまった女性、まさにそこにイエスは生まれた、そこに救い主はやってきた、そしていつも共にいるということだ。
それは名もない、そしていろんな重荷を負って生きている私たちのもとへも救い主がやってきている、この私たちのことをも神は見つめている、神はそんな私たちともいつも共にいる、そのことを福音書は伝えているのではないかと思う。