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礼拝メッセージより
ささげもの
今日は洗礼者ヨハネの誕生についての話しだ。
旧約聖書の出エジプト記30章に幕屋の中の香をたく祭壇の作り方や香料の作り方などが書かれている。そしてその香料は幕屋でしか使わないようにと書かれている。朝夕香をたいて幕屋の中はそこでしか使わない特別な良い香りで満たすようにということだ。
出エジプト記では幕屋で香を炊いていたが、イエスの時代には神殿があってそこでも同じように香をたいていたようだ。今日登場する洗礼者ヨハネの父親となったザカリヤは、聖所に入って民を代表して香をたくという務めを負っている祭司だった。
聖所では何が起こるかわからない。最も神に近づく場所と考えられていたようだ。神を見ると死んでしまうと考えられていた時代で、何が起こるか分からない、そこで気絶するなどして出て来れなくなるかもしれないとも考えられていたそうだ。もし倒れても許されていない者しか入れないし、下手に助けに行っても死んでしまうかもしれないし。そこで聖所に入るときは足にロープをつけていたという話を聞いたことがある。倒れたときにはそのロープを引っ張って引きずり出すということだった。
神というのは人間側に過失があると何をされるか分からない恐い存在だったようだ。だから罪を赦してもらうために犠牲の動物を燃やしたり、香料を炊いて良い香りを献げて神を宥めていたようだ。神に献げるものはどれも形のないもののようだ。犠牲の動物も燃やし尽くして良い香りにするし、香を炊いたり、楽器を奏でたり歌を歌ったり。どれも目に見えないものばかりだなと思う。見えないものこそ神に届くという考えだったのではないかと思う。
香をたくというのはその神に近づく務めということでとても緊張する大変な務めだったんじゃないかと思う。
当時は2万人以上の祭司がいたという説もあるそうだけれど、その祭司が24組に分けられていたそうだ。つまり各組には1000人近い祭司がいたことになる。そして一つの組には年に2度、1週間の務めがあたえられて、その時にはくじをひいて務めについた。その最も大切な務めは香をたき祈ることだった。
この時ザカリアがくじによって香をたき祈るつとめに当たった。祭司が大勢いたのでくじにあたることも多くはなく、聖所に入って香をたく務めにつくなんてことはとても稀だった、あるいは一生に一度あるかないかというような経験だったようだ。
そんなとてつもなく緊張する務めについていた時に天使が現れたというわけだ。ザカリヤは不安になり恐怖の念に襲われたと書かれている。緊張している務めの最中に予想外の出来事が起こり、しかも神を見ると死んでしまうというような考えもあっただろうし、ザカリアが恐れるのも当然だろうなと思う。そんなザカリアの様子を見て天使は、恐れることはないと言ったというわけだ。そしてあなたの願いは聞き入れられた、そしてその子はイスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせるなんてことを伝えたと言う。
ザカリヤと妻のエリサベトには子どもがなかったと書かれている。当時のユダヤの地方では、子どもは神からの祝福の証しと考えられていたそうだ。だから子どもがないことは祝福されてないことでもあった。彼らは子どもがないという負い目を感じながら生きていたことだろう。だから子どもができることを心底願っていたのだろう。そしてそれが実現するということは何よりも大きな喜びだったんじゃないかと思う。
しかしザカリヤとエリサベトは年を取っていた。子どもができると言われてもにわかには信じがたいほど歳だったということだ。
ザカリアは何によってわたしはそれを知ることができるでしょうか、とガブリエルに問いかけたとあるけれど、それに対する答えは見あたらない。答はないようだが、このことを信じなかったので口が利けなくなると言われる。あるいはそれがしるしということなんだろうか。
天使の言葉通り、エリサベトは身ごもる。エリサベトは主が自分に目を留めて、恥を取り去ってくださったと喜んだとある。子どもがないことでずっと辛い思いをしていたということだろう。
信じられない
最初に天使はザカリアに対してあなたの願いは聞かれたと言った。彼にとっての願いは勿論子どもが与えられるということだったのだろう。しかし年を取る毎にその願いはだんだんとしぼんでいたのだろう。だからザカリアは天使に願いは聞かれたと言われても信じられなかったんだろう。信じられなかったけれどもその願いは叶えられたということだ。
しかもただ子どもが欲しいという個人的な願いが聞かれただけではなくて、そのヨハネは、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる、彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する、というとてつもない務めを果たすために生まれて来るというのだ。
今日の話しは全部その通りに起こったということではないだろうと思う。本当にこんなことが起こったのだということよりも、ヨハネが主に先立つ者として生まれたのだということ、そして何より少し後に生まれるイエスこそが主である、救い主であるということを伝えようとしているのだと思う。そしてそれは神の計画なのだということを分かりやすく伝えようとしているということだと思う。
そして面白いのはアブラハムがそうであったように、ザカリアも子供が与えられるという天使の言葉が信じられなかったということだ。けれどもだからといって子供が生まれないなんてことはない。
疑わずに信じることで神が助けてくれるのではなく、信じない者をもというか、信じるよりも先に神が助けてくれる、だから信じるということだと思う。
篠崎教会の説教の受け売りだけれど、榎本保郎という人の新約聖書一日一章にこんなことが書いてあるそうだ。
「どうして神を喜ばせていくかではなく、神が私たちの方にどのようにして近づかれ、何をされたかに眼をとめていくのがキリスト教である・・・私たちの信仰の基盤は、私のような者を神が心にかけて下さったということを知ることである。」
私のような者を、心にかけてくれるというのだ。
まとまりのないメッセージばかりで、礼拝の人数も減らすばかりの、こんな私にも目を向けてくれているということかと思った。
自分で自分を責めて、自分を裁いて、自分は駄目だと思っている。でもそんな私のような者を神は心にかけてくれている。なんということか。