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礼拝メッセージより
実現した
今日はイエスが故郷のナザレの会堂で話しをしたという箇所だ。
会堂というのはキリスト教にとっての教会のようなところで、ユダヤ教の人達が安息日に集まって礼拝する場所のことだ。
会堂では安息日に礼拝をしていて、会堂長が会衆から一人を選んで聖書朗読と説教をさせることができたようで、特に資格のあるものだけが説教をしたのではなかったそうで、話しをすること自体はそれほど特別なことではなかったらしい。
イエスが朗読したのは、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
これはイザヤ書61章1-2節あたりだったようだ。そしてこの言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した、と話し始めたと書かれている。その話しを聞いてみんなは恵み深い言葉に驚いたというのだ。その恵み深い言葉ってどんな言葉だったんだろうか。その言葉こそ知りたいと思うけれど。
それは置いといて、イエスはこのイザヤの言葉が今日実現したと言ったというのだ。どういうことなんだろうか。よく分からないけれど、イエスは捕らわれている人を解放し、目の見えない人の視力を回復し、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためにやって来た、そのために生まれて来たということなのかなと思う。
ではそのイエスが解放し、回復し、自由にするというのはどういうことなんだろうか。分かるような分からないような感じ。
思い込み
イエスの話しを聞いた人たちは、最初はイエスを褒めたけれど、その後イエスが預言者は故郷では歓迎されないなんて話しをして、郷里でも奇跡を求めたとしても叶わないというような話しをすると、今度は崖から突き落とそうとしたなんてことが書かれている。
かつて神はエジプトから自分達を救い出してくれた、バビロンからも連れ戻してくれた、今また外国に支配されているけれど、やがて救い主がやってきて、再び強い国にしてくれる、ユダヤ人たちはそんな風に思っていたらしい。神はそのように偉大な力で自分達を助けてくれる、計り知れない力で自分達を導いてくれる、またそれこそが神だ、というような思いを持っていたのではないかと思う。
私たちも同じような思いを持っているのではないか。全知全能というような言い方をするけれど、神なのだから何でもできる、どんな奇跡だって起こせる、病気も治してくれる、試験にも合格させてくれる、金持ちにもしてくれる、教会も大きくしてくれる、そんな圧倒的な力でもって自分を助けてくれるはずだ、是非そうして欲しいと願う気持ちも強い。そのためにはちゃんと信仰心を持って、偶像崇拝もしないで、一生懸命に信じることが大事だ。そうしないと神は願いを叶えてくれないかもしれない、そんな風にも思っている。
実はそれはナザレの人達、あるいはイエスを十字架につけたユダヤ人たちが願い求めていた神の姿なのかもしれないと思う。
しかしイエスの伝えた神の姿、イエスの中に見える神の姿は全く別のものだと福音書は伝えているようにも思う。
ルカはここに「捕らわれている人に解放を、目に見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの時を告げる」というイザヤの言葉を記している。この言葉は今日実現した、とイエスが語ったと書いているが、それはまさにルカが告げたいことそのものなんだろうなと思う。
イエスは、いろんな思いやしがらみに捕らわれている人を解放しまた自由にし、大事なことが見えず、自分の価値や幸せが見えない人にそれを見せる、そんな救い主、キリストであると告げているのだろう。
解放
健康で、若くて、お金を持って、何でもできて、地位も名誉もある、そんなものを誰もが求めているだろうと思う。でもいつしかそういうものに捕らわれてしまっているのかもしれないと思う。だから自分の健康や若さや教養や財産や地位や名誉、そういうものが欠けてしまうことを恐れていて、そういうものを失うことが不幸なことだと思ってしまっている。だからそれを守ってくれることを神に願って、それを守ってくれることこそが神の業のように思っている。
礼拝の人数が少なくなったといつも嘆いているけれど、それって増えることで自分の牧師としての名声が上がることを期待しているからであって、結局はそんな牧師としての名誉みたいなものに捕らわれているんだなと思った。
金持ちになりたいという気持ちの中にも、もちろん生活のためというのもあるけれど、まわりに貧乏だと知られたくないため、惨めだと思われたくないためというような気持ちがいっぱいある。もっと言えば貧乏な自分、あるいは何の業績も残せない自分は駄目な人間、価値のない人間という思いがすごくあるなと今回思った。
駄目な自分、価値のない自分とならないために神に助けを求める、なんだかそんな思いが強い。それは貧乏で教会も大きくする力もない、何の業績もない今の自分は駄目だ、こんな自分では恥ずかしいという思いに捕らわれているということなんだと思った。
しかしイエスは、そのままのお前が大切だ、そのままのお前が大事なのだ、と繰り返し語っていると思う。こうあらねばならないという思いに捕らわれていて、そうなれない自分を責めているのだと思った。
そんなお前を解放するために、自由にするために私は来た、イエスはそう語ってくれているのだと思う。