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礼拝メッセージより
城壁奉献
エルサレムの城壁が完成し、奉献式を行ったのは紀元前445年位のことらしい。そのためにまずレビ人を集めたと書いてある。
バビロン捕囚後に再建された神殿は紀元前517年頃には完成していて、それからでも70年位経っていることになる。神殿は完成したけれど、どうやら神殿での礼拝は途絶えたままで、レビ人も神殿での祭儀を行うこともなく、エルサレム周辺の村で農作業をして生活していたようだ。
城壁の奉献に際して、先ずはそんなレビ人を呼び集めたということのようだ。集められたレビ人と祭司は身を清めて、民と城門と城壁を清めたとある。清めるってどういう風にするんだろうか。
その後ネヘミヤは二組の合唱隊を編成した。一組をエズラが導き、もう一組をネヘミヤが導いて、城壁をそれぞれ反対方向に進んで行き、神殿で落ち合った。城壁の上を合唱隊がラッパと共に歌いながら行進するというのが、城壁奉献式のクライマックスだったようだ。
詩篇48篇はこの頃に出来たのではないかと考えられているそうで、もしかしたらこの奉献式の時に歌ったかもしれない。
「大いなる主、限りなく賛美される主。わたしたちの神の都にある聖なる山は高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。見よ、王たちは時を定め、共に進んで来た。彼らは見て、ひるみ、恐怖に陥って逃げ去った。そのとき彼らを捕えたおののきは/産みの苦しみをする女のもだえ東風に砕かれるタルシシュの船。聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た/万軍の主の都、わたしたちの神の都で。神はこの都をとこしえに固く立てられる。神よ、神殿にあってわたしたちは/あなたの慈しみを思い描く。神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。あなたの裁きのゆえに/シオンの山は喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る。シオンの周りをひと巡りして見よ。塔の数をかぞえ城壁に心を向け、城郭に分け入って見よ。後の代に語り伝えよこの神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」(詩篇48:2-15)
城壁の完成を女も子供も友に喜び祝い、エルサレムの喜びの声は遠くまで響いたと書かれている。
今日の箇所に続く44節以下では、民が祭司とレビ人の生活を支えるようになったことが書かれている。
「その日、礼物と初物と十分の一の供出物を蓄える収納庫の監督が任命された。こうしてそこに、律法が定めているように、祭司とレビ人の生活の糧を、町々の耕地から徴集して納めた。実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。祭司とレビ人は神への務めと清めの務めを守り、詠唱者と門衛はダビデとその子ソロモンの定めによく従った。ダビデとアサフがいた昔の時代のように、詠唱者の頭がいて、神への賛美と感謝の歌をつかさどった。ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代のイスラエルの民は皆、毎日詠唱者と門衛に生活の糧を提供した。また、レビ人には奉納物を与え、レビ人はその奉納物をアロンの子らに分け与えた。」(ネヘミヤ記12:44-47)
神殿は出来ていたけれど、祭司やレビ人の生活はそれまでは支えていなくて、ということは神殿での儀式もきっちりと行われている訳ではなかったということらしい。貧しい生活のために支える力がなかったということか、あるいはそこまでの意識がなかったということなんだろうか。
しかしここに来てやっとユダヤ教としての体制が整ったということのようだ。
喜び
城壁奉献式では神が大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝ったと書かれている。この喜びってどんな喜びなんだろうか。
崩された城壁がまた完成したということで町としての形も整って、これから安心して生活できるというような喜びなんだろうか。かつての強い国へと近づいてきたというような喜びなんだろうか。
聖書教育には、城壁という言葉は敵の存在を前提としていると書いてあった。城壁とは敵から自分達を守るためのものだ。常に周辺諸国との対立があったり、強い国に支配されてしまっている現状で、城壁が完成したと言うことはとても大きな安心材料ではあったのだと思う。そういう喜びが大きかったのだろうと思う。
神殿が出来たり、城壁が完成したり、それも勿論喜びなんだろうけれど、やっぱり一番の喜びって、神共にいるということなのではないかと思う。
自分の外の状況が整うというのは確かに嬉しいことだ。大きな家を持ったり立派な車を持ったりすることも嬉しいし、お金をいっぱい持つことも嬉しいことだ。そうやって自分の外側が豊かになることも嬉しいことだ。
けれど何よりも嬉しいのは自分の内面というか自分の心が豊かであることだと思う。
自分の心が豊かであるのは、共にいることだと思う。共に喜び共に泣く、そんな友がいることはとても豊かなことだと思う。
そしてなによりも神が共にいること、インマヌエル、神我らと共に、それこそが究極の喜びだろうと思う。
私たちと共にいるためにエス・キリストはこの世に生まれて来たのだと思う。見えないけれど、いつも共にいてくれている。
クリスマス、それはこの喜びを噛みしめる時なのだと思う。