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礼拝メッセージより
城壁
補囚からの帰還許可が出てから100年近くたって、エルサレムへやってきたペルシアの役人でもあったネヘミヤの指揮の下、敵の妨害や脅迫を乗り越えてやっとエルサレムの城壁が完成した。
ネヘミヤはアルタクセルクセス王の第20年、第一の月にペルシアを出発し、第5の月にエルサレムに到着し、6章25節によると52日かかってエルルの月、これは第6の月の25日に、城壁が完成したとなっている。
完成披露パーティー
そして第7の月の一日、水の門の前にある広場で、エズラがモーセの律法を朗読したというのが今日の箇所になる。
エズラが律法を読み、主をたたえると、民は皆両手を挙げて、アーメン、アーメンと唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
その後にレビ人が律法の書を翻訳したので人々は理解した。そしてその後民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた、と書かれている。
ちょっと不思議。意味もよく分からずにアーメンって言ったのかな。そして意味が分かると泣いたのかな。
過去
どういう気持ちで泣いたのかは書かれていない。
律法の書に書かれていたことを自分達が守ってこなかったということを知ったから泣いたのだろうなと思う。
自分達祖先の苦しみを思い返し、そこから続いている苦しい現実を思い起こしての涙だったのかなと思う。
民が律法を聞いて泣いた時に、エズラたちは嘆くな泣くなと言った。結局民は過去を見つめて、過去の過ちを嘆いて泣いたということではないかと思う。
泣くな、喜べと言うのは未来を見よということでもあるんだろうと思う。律法というのは、過去の過ちを突きつけるものではなく、未来の希望を与えるものなのかもしれないと思った。未来に神と共に生きるためにどうすればいいのかということを示すためのものなのだろうと思う。
喜べ
さらにエズラたちは、良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい、その備えのない者には、分け与えてやりなさい、主にささげられた聖なる日だから悲しんではならない、主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である、と語った。
主にささげられた聖なる日というのは、礼拝する日ということでもあるのだろうけれど、喜ぶ日であるというのだ。
聖書では喜びなさいと繰り返し語られている。
「いつも喜んでいなさい。」(Tテサロニケ5:16)
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」(フィリピ4:4)
イエス・キリストは第一の戒めは、主なる神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することだと言った。律法の真髄はここにあるんだろうと思う。
また聖書では神が私たちを愛してくれていることが繰り返し語られている。
「誰かを心から愛すると力が出る。
誰かに心から愛されると勇気が出る。」
(老子/中国の哲学者)
今日の聖書では城壁が出来たから喜べと言うのではなく、主にささげられた日だから喜べと言われている。それってどういうことなんだろうか。良いことがあったら喜ぶというのは分かるけれど、主の日だから喜べというのはどういうことなんだろうかと思った。
主を喜ぶというのはどういうことなんだろうと考えていたけれど、結局は主から愛され主を愛するということではないかと思った。
老子が言うように、心から愛し愛されるところに力と勇気が出てくるのだと思う。
神に心から愛され、神を心から愛す、そんな神と共に生きていくことを喜ぶ、それが主を喜ぶということなのかなと思う。
現実は喜べない?
でも喜べと言われている見たい。
smile
チャップリンの映画で歌われたというsmileという曲を思い出した。
笑顔でいよう、心が痛くても
笑顔でいよう、心が傷ついたとしても
曇り空のときのように
きっと通り抜けていくよ
怖くて悲しいくても笑顔なら
笑顔でいるならきっと明日は
太陽が昇るのが見えて
あなたのために輝くだろう
喜びの表情を浮かべて
悲しい面影は隠して
涙があふれそうになっても
そういうときこそ
なんとかこらえて笑顔でいよう
泣いたところでどうにもならないからね
そうすればきっと人生はまだまだ捨てたもんじゃないと気づくよ
ただ笑顔でいれば
HAPPY FLIGHT
もう一つ、HAPPY FLIGHTっていう映画を思い出した。
一人の副操縦士がジャンボ機の機長昇格試験を兼ねたフライトで、羽田からハワイへ向かう途中に、機材の不具合で羽田に帰ることになった、けれど丁度羽田には台風が近づいていて、しかも試験官となっている機長が棚から落ちてきたお客さんの荷物を受け止めて手を痛めてしまって操縦ができなくなってしまう。厳しい条件の中、自分ひとりで台風の中を羽田まで操縦しないといけなくなってビビっている副操縦士に向かって、試験官の機長は「こういう時は笑え、俺はいつもそう指導している。」と言った。副操縦士は無理して笑おうとするけれど顔がゆがんでしまって、「無理です。」と答えた。そんなシーンがあった。
嬉しいことがあったときには喜べるし笑えると思う。でもそんなものが何もないのに、苦しいばっかりなのに喜べと言われても、笑えと言われてもなかなかできないように思う。
でも聖書では「喜べ」とさんざん言われている。けれど、まじめに聞いてこなかったような気がしてきた。喜べない現実を見つめては嘆いてばかりいるなあと思った。そんな自分に向かって神は、喜びなさい、喜びなさいと言われているような気がしてきている。
副操縦士は無理ですと応えたけれど、笑えと言われたことで、そして笑おうとしたことで、冷静に対処する力が湧いてきたのかなと思う。
何もないのにそこで喜べたら、笑えたら、世界は違って見えるのだろうと思う。苦しい状況の中でたとえ喜べなくても笑えなくても、喜べ笑えと言ってくれる方がいるというのは嬉しいことだと思う。
力の源
「主を喜ぶ祝うことこと、あなたたちの力の源である。」
喜ぶことが何も見つからなくても、主を喜ぶことはできる、それこそが私たちの力の源であるということかな。