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礼拝メッセージより
補囚
紀元前586年、バビロニアによってユダ王国が滅亡され、多くの人々がバビロンに連れていかれた。そしてそのバビロニアが今度はペルシアに屈服し、前538年キュロス王の勅令が発布され、補囚されていた民はまた自分の国へ帰ることができるようになった。補囚と言っても奴隷とか拉致というようなものではなく、移住とか亡命というようなことだったそうで、そのまま異国に残るユダヤ人も少なくなかったそうだ。その後帰還したユダヤ人によってエルサレムの神殿は破壊されてからおよそ70年後に再建された。
ペルシアに住むユダヤ人の中にはペルシアの社会の中で出世し一つの地位を築いていた者もいた。ネヘミヤもそんな成功者の一人だったようだ。1;11にはネヘミヤが献酌官として王に仕えていたと書かれている。献酌官というのはただ単に王の杯に酒を注ぐ役人ということかと思っていたけれど、毒見をしたり、王の側近として政治的な助言もしたという説明もあった。
知らせ
1章の最初の所に第20年と書いてある。2:1ではアルタクセルクセス王の第20年とあって、1章もアルタクセルクセス王の第20年のことで、1章はキスレウの月、2章はニサンの月のようだ。それは紀元前445年位になるみたいだけれど、ということはキュロス王の帰還してもよいという発布からは100年近くということになる。その時ネヘミヤのもとへ彼の兄弟ハナニたちがエルサレムからやってきた。兄弟というのは多分同胞という意味ではないかと思うけれど、そのネヘミヤはハナニたちにユダの人々とエルサレムについて尋ねた。その答えは、「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」(1:3)というものだった。「補囚の生き残り」というのは補囚から解放されてユダの地に帰還していた人たちだろう。先にユダに帰還はしたけれど、エルサレムは依然として荒廃したままであるという嘆きを聞かされたということだ。それを聞いたネヘミヤは「座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた」(1:4)と言う。
その祈りは「「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした。どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起こしてください。『もしも背くならば、お前たちを諸国の民の中に散らす。もしもわたしに立ち帰り、わたしの戒めを守り、それを行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、わたしは彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ場所に連れて来る。』彼らはあなたの僕、あなたの民です。あなたが大いなる力と強い御手をもって贖われた者です。おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」(1:5-11)というものだった。
最後の「この人の憐れみを受けることができるように」という、この人というのがアルタクセルクセス王ということだったようで、そこで今日の2章へと続く。
暗い表情
2:1では、「わたしは暗い表情をすることはなかったが」となっているのに、2:2では王が「暗い表情をしているがどうしたのか」と聞いたと書かれている。口語訳も新改訳も「それまでは」暗い表情をしていなかったがという間違いだろうと解釈してそのように訳しているようだ。書き間違いか写し間違いがあったのかな。
ネヘミヤがいつもより暗い表情をしていたので王がどうしたのかと聞いてきたので、先祖の墓のある町が荒廃して、城門も火で焼かれたままである、再建したいのでユダに遣わしてほしい、そのためにユーフラテス西方の長官への書状と、再建のための木材を与えてもらうための書状を欲しいと願い、王はその願いを聞き入れてくれたという話しだ。
熱い想い
冒頭で言ったように、キュロス二世の故郷への帰還の許可が出たのが紀元前538年で、エルサレム神殿が再建されたのが前515年だそうで、アルタクセルクセス王の第20年が前444年とすると、帰還許可から100年近く、神殿再建からも70年位経っていることになる。世代も入れ替わっているころだ。異国で生まれ育ってきて、王の側近としてかなり高い位に上り詰めていたであろうネヘミヤがエルサレムにどれほどの思い入れがあったのだろうか。自分がユダヤ人であることは知っていたであろうけれど、そこへ帰還するというか移住するというか、そこまでの気持ちはなかったわけだ。ハナニたちがやってきて話しを聞くまでは案外それほどの思い入れもなかったのではないかと思う。
やがてネヘミヤが町を再建するためにエルサレムへ向かうという気持ちになったということ自体がすごいなと思う。
祈り
ネヘミヤはハナニたちの話しを聞いて泣いて嘆いて断食して祈ったと書かれている。その結果がアルタクセルクセス王がネヘミヤの要望を聞いてくれたことのように書かれている。それもあるんだろうけれど、祈りの結果の一番はネヘミヤが自分がエルサレムの町を再建するために出掛けようという気持ちになったことじゃないかという気がしている。
祈りとは神を変えるのではなくて自分を変えることだと、昔の偉い人が言っているそうだ。
私たちが祈るとき、あれをこうしてください、ここをこうしてください、あの人をこうしてください、と祈る。教会が大きくなるようにしてください。献金が多くなるようにしてください。あの人が礼拝にくるようにしてください。あの人がよく奉仕するようにしてください。あの人が信仰深くなるようにしてください。あの人が優しくなるようにしてください。そしてそう祈ることで自分のつとめは果たしたような気になる。あとは全部神さまの仕事ですよというような気持ちでいる。でも思うようにならないことが多くて私の祈りは聞かれない、私の祈りは力がない、なんてことを思う。自分自身が変わったかどうかではなくて、自分の周りの状況が変化したかどうかで祈りが聞かれたとか聞かれないとか思うことが多いのではないか。
流れに乗る
ネヘミヤはエルサレムの再建に向けて自分が出発することになった。ネヘミヤは祈る事で自分の心が変えられたんだろうと思う。祈る事で自分が変えられたんだろうなと思う。
見えない所で神がどう導いているのか私たちには分かり辛い。神の計画がどこにあるのか分かり辛い。祈りって神の計画という大きな流れに乗っかっていくことというか、神の流れに乗せてもらうために祈るのではないかという気がしている。神が私たちに対して持っている計画がどこにあるのか、それを聞くのが祈りなのではないかという気がしている。その大きな流れの中で私たち自身が何をするのか、何ができるのか、神が何を期待しているのか、それを聞くのが祈りなのではないかなと思う。
私たちはすでに神の大きな流れに載って生きているのだと思う。その事を知り、その流れに身を委ね、そこでなすべき務めを聞いていく、それが祈りなのではないかと思う。