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礼拝メッセージより
帰還
エズラ記は6章までが神殿建設についての話しになっていて、7章になるとついにと言うかやっとと言うかエズラが登場する。
エルサレム神殿が再建されたのは紀元前515年だそうで、エズラがユダに帰還したのが紀元前458年になるそうだ。神殿再建から57年ということになるのかな。
「神殿は再建されたけれど、礼拝や祭儀は形骸化し、社会的矛盾が拡大していた。国土の大半は廃墟のままであり、人々は神殿への寄進を怠り、信仰を失いかけていた。また安息日も守られず、聖職者も堕落し、異教徒との結婚も普通に行われていた。」(篠崎キリスト教会のHPより)
神殿という建物は出来たけれど中身は整っていないというような状態だったようだ。そんな祖国を建て直すためにエズラやネヘミヤが帰国して改革していったようだ。
エズラはアロンの子孫にあたる祭司であり、またモーセの律法に詳しい書記官だとも書かれている。書記官というのはペルシアの高官ということになるようだけれど、そのエズラが当時の王であるアルタクセルクセスの命令によってバビロンからエルサレムへと上ってきたという話しだ。
ところで、7章の始めにそのことが書かれているけれど、新共同訳聖書は7章の節の順番が、1a-6a-1b-2-3-4-5-6bというように入れ替わっている。これは訳文を読みやすくするために、原文とは違った順序にしているのだそうだ。
7:12以下にアルタクセルクセスの親書の写しがあって、そこにはエズラに対する使命が書かれている。その内容は、神の律法に従って、ユダとエルサレムの事情を調べることと、ペルシアの王と顧問官を始めとして、バビロニア各地から得られる金銀と献げ物を持っていき神殿で献げること、そして律法を知る者を治め、律法を知らないものには教えを授けよ、なんてことだった。
レビ人
今日の箇所ではそのエズラの帰還の様子が書かれている。15節にあるアハワというのはバビロニアにある地名だそうで、そこに流れる川のほとりに帰還する民を集めた。そこには民も祭司もいたけれどもレビ人が見あたらなかったと書いてある。
レビ人はネヘミヤ記8章によると、律法の朗読と説明をしている。そのためにアシフヤという所の神殿のレビ人と、神殿の使用人も一緒に行くことになった。
断食
そしてアハワ川のほとりで断食して、旅の安全を祈った。彼らが神殿に持って行ったものが8:26以下に書かれているが、「銀六五〇キカル、銀の祭具百キカル、金百キカル、金杯二十個一千ダリク、良質の輝く青銅の器二個」というもので、相当高価なものを運んだようで、それをエルサレムまで運ぶのは大層危険な務めでもあったのだろう。7:9によるとバビロンを出発してエルサレム到着まで4ヶ月かかったとなっている。そんな大変な旅だったけれど、8:22にあるように「わたしたちの神を尋ね求めるものには、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」と言って王に護衛を頼むことを恥として頼まなかったようだ。
神が守ってくれるから大丈夫です、そんな格好いいことを言いつつ断食して一所懸命に祈っているのが面白い。今回そこが一番心に残った。
面談
実は一昨日バイト先で面談があった。スーパーの本部の部長さんとZOOMで面談した。ナイトマネージャーの実情を知るためにナイトマネージャー全員と面談しているということだったけれど、その面談でどういうことでここに働くことになったのかとか、どんな仕事をしているのかというような話しだった。そこで頼まれた仕事の他に、空き箱の整理とかチラシの整理としてる話をしたんだけれど、それはお客さんが取りやすいように、自分がお客さんとして来たときにそうなっていたらいいと思ってしているなんてことを話した。
面談が終わってからそのことも考えていて、お客様目線ということですねと言われて、そういう気持ちもあるし嘘ではないけれど、それだけじゃないななんてことを思った。チラシは余ればゴミになるだけで、そのゴミを自分が捨てることもあって出来るだけ減らしたいなんてことも考えているなあ、なんてことを考えていて、自分の気持ちのなかにもいろんな思いがあるなあなんてことを後になって思った。だいたい気持ちってひとことで言えるようなものじゃなくて、いろんなものが入り混じっているよなと思った。ついついええ格好してしまう癖があってあんなことを言ったけれど、もっと正直な思いを言えれば良かったなとちょっと後悔した。
混じりっ気あり
今日の箇所でエズラが王にかっこいいことを言いつつ、断食して祈ったというのは、エズラの心の中にも神に対する信頼と不安とが混じり合っているということなんじゃないかと思う。
僕の感覚からすると、神を信じているからといって疑いも心配もなくなるなんてことはない。信仰ってのは疑いを無いところ、疑いを無くすところにあるんじゃなくて、どっちかというと疑いのある中にあるように思う。信仰には疑いと確信とが入り混じっているような気がしている。
心配なことがある時に、神様がきっと守ってくれるという思いと、本当に大丈夫なんだろうかという思いとが入り交じっている。守ってくれるからきっと大丈夫だろうと思う時と、本当に大丈夫だろうかと思う時とが入り混じっている。
エズラもこの時、王に対して言ったように神が守ってくれるから大丈夫という気持ちと、それでも断食して祈らないといけないという気持ちとが入り混じっていたんじゃないかと想像する。完全に大丈夫だという安心感があればそんなに祈る必要もないという気がするんだけれど違うのだろうか。それとも一所懸命に祈れば安心できるようになるのだろうか。やっぱり祈ったからといっても完全に疑いがなくなるというわけではないように思う。疑いを持った自分をそのままに任せるのが祈りなんじゃないかという気がする。
私たちの神はそんな混じりっ気のある私たちをそのままにしっかりと受け止めてくれる、そんな私たちといつも一緒にいてくれているのだと思う。