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礼拝メッセージより
神殿
ペルシアのキュロス二世は紀元前539年にバビロンを征服して、翌年前538年にユダヤ人の帰還と神殿の再建を許可するという勅令を発したそうだ。
そしてエズラ記の3章8節には、その翌年に神殿の工事を始めたと書かれている。
しかしその工事は中断されてしまう。中断の理由が4章に書かれている。ユダとベニヤミンの敵が建築を手伝わせてくれ、私たちもあなたがたの神を尋ね求めるものであり、この神にいけにえをささげている、と言ってきたことに対して、工事の責任者であるゼルバベルとイエシュアが、これはペルシア王のキュロスが私たちに託された仕事でありから自分達だけで神殿を建てると言って断った、そのために敵がいろいろと妨害工作を行った。その結果4章24節にあるように、ダレイオス王治世第二年まで工事は中断したということだ。
ちなみに、エズラ記の4章6節から23節までの話しは、神殿の話しではなく、町の城壁を再建する時の話しがここに紛れ込んでいるらしい。というのも、クセルクセスとかアルタクセルクセスという王の名前が出てくるけれども、この人たちはダレイオス王の子供と孫に当たる王で、もっと後の世代の出来事になるそうだ。
中断
そして中断の理由が4章に書かれている。ユダとベニヤミンの敵が建築を手伝わせてくれ、私たちもあなたがたの神を尋ね求めるものであり、この神にいけにえをささげている、と言ってきたことに対して、工事の責任者であるゼルバベルとイエシュアが、これはペルシア王のキュロスが私たちに託された仕事であるから自分達だけで神殿を建てると言って断った、そのために敵がいろいろと妨害工作を行ったということだ。その結果4章24節にあるように、ダレイオス王治世第二年まで工事は中断したということだ。
再開
5章1-2節に、「5:1 預言者ハガイとイドの子ゼカリヤが、ユダとエルサレムにいるユダの人々に向かってその保護者であるイスラエルの神の名によって預言したので、5:2 シェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアは立ち上がって、エルサレムの神殿建築を再開した。神の預言者たちも彼らと共にいて、助けてくれた。」とある。
ハガイとゼカリアという預言者の言葉に助けられてというか促されて、ユダの人々は神殿の工事を再開したということだ。
ハガイもゼカリアもダレイオスの第二年に神から言葉を預かったとある。そしてその言葉に励まされてユダの人たちは、神殿の再建に取りかかったようだ。
ダレイオス王の第二年というのは紀元前520年になるそうで、キュロス王がエルサレムへ帰っていいという命令を出したのが前538年位らしいので、そのすぐ後に最初の工事をしていてそれが中断されたということならば、20年弱の間中断されたということになる。
ゼルバベルとイエシュアが預言者たちの言葉に励まされて神殿建築を再開すると、今度はユーフラテス西方の総督、つまりペルシアの役人のことだろうけれど、その役人がこの神殿を建てるのを誰が命令したのかと聞いてきた。また妨害しようとしてきたということなんだろうか。それとも勝手なことをされては困るということで確認に来たのだろうか。
5章5節には、「しかし、神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので、彼らは建築を妨げることができず、その報告がダレイオスになされ、それに対する王の返書が送られてくるのを待った。」と書いてある。どういうことが起こったのか分からないけれど、かつてキュロス王が神殿建築の命令を出したかどうかということをダレイオス王に調べてもらうことになった。
その結果キュロス王の命令が書かれた巻物が見つかり、ダレイオス王からペルシアの役人に対して、干渉をやめ神殿の再建に全面的に協力するように、経費も国費でまかない、献げ物に必要なものも欠かさず与えるようにという命令が出されることになった。
完成
そこでダレイオス王の治世第六年に神殿が完成し犠牲を献げた、というのが今日の箇所だ。工事が再開されたのがダレイオス王の第二年ということだったので、四年間くらいかかったということらしい。
いろんな妨害や干渉があったけれど、やっとというか遂にというか、どうにか神殿を再建することができ、神殿の奉献をすることができたということだ。
奉献のために結構な数の献げ物をしたと書かれている。そしてその後過越祭と除酵祭も行ったと書かれている。かつて自分達の先祖がエジプトでの奴隷生活から救い出されたことを記念する祭りを行って、神が今度はバビロン捕囚からエルサレムへと連れ戻してくれたことを喜んだということだろう。
やっとできた。けど、
やっとできた、良かった良かった、という話しなんだろうか。何かモヤモヤしているというかすっきりしないものがある。
ユダヤ人にとって神殿というのはそんな神と自分達との繋がりを持つ場所だったようだ。神殿があるからこそそんな繋がりを持つことが出来ると考えていたような節がある。逆に言うと神殿がなければ神とのつながりも持てないかのように考えていたんじゃないかと思う。神殿で献げ物をすることで神との正常な関係を持つことができると考えていたようだ。17節には贖罪の献げ物をしたなんてことも書いてある。つまり自分達の罪の身代わりとして動物を献げて、自分の罪を赦してもらう、そうやって自分も罪のない者とされないと神との正しい関係を持てないと考えていたということだろう。
本当にそうなのだろうか。私たちは、私たち自身が正しく清いものとされないと神から相手にしてもらえないのだろうか。
イエス・キリストはそうじゃないと伝えてくれていると思う。罪も汚れも間違いもある私たちを、神はそのままに愛していると伝えてくれている。弱い惨めな私たちを神は大事に思ってくれているということを伝えてくれている。
私たちの神は、人間の側が献げ物をすることで初めて私たちのことを向いてくれるような神ではなく、神の方から私たちに愛を与えてくれるそんな神なのだと思う。イエス・キリストはそんな神の愛を届けてくれている。神として私たちを心底愛してくれている。私たちはその愛をしっかりと受け取って生きていく。