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礼拝メッセージより
エズラ記
エズラ記はその次のネヘミヤ記とはもともとひとつの書物だったそうだ。そしてその前の歴代誌の続きとなっているそうだ。
というのも歴代誌の最後の言葉は、エズラ記の最初の部分とほとんど同じになっている。
歴代誌下
36:22 ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口を通して約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。
36:23 「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。」
キュロス
紀元前586年、南王国ユダはバビロニアに滅ぼされて、多くの民がバビロンに補囚された。しかし紀元前539年、アケメネス朝ペルシアのキュロス二世はバビロニアを征服した。
キュロス二世は紀元前559年に王に即位し、それまで支配されていたメディアを倒して独立し、紀元前546年にリディア、紀元前540年にエラムを征服し、紀元前538年にはバビロニアを倒した。
キュロスは翌年かその次の年に勅令を発して、バビロニアによって強制移住させられた諸民族を解放した。
キュロスは征服した民族に対して寛大で、自分の信仰する宗教を征服した民族に強制することはしないで、それぞれの民族の宗教も認めていた。そこで、ユダヤ人たちにもエルサレムへ帰り神殿を再建することを許可した。
キュロスの円筒碑文、キュロスシリンダーとも言うそうだけれど、そこにはキュロスが信仰を奪われた各国に対してその神々の像を返し、バビロンに連れ去った各地の住民を元の国に返したということが書かれているそうだ。
このことに関してエレミヤ書とイザヤ書はこんなことを書いている。
エレミヤ書
29:10 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。
29:11 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
イザヤ書
45:1 主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。
歴史の裏側
エレミヤはバビロン捕囚という苦しい時代もやがては終わる、70年の時が満ちたならばエルサレムへ帰ることができるということを語っていたけれど、遂にその時が来たということのようだ。
その時をもたらしたのがキュロスだった、キュロスがバビロニアを滅ぼしてくれたことで、そしてキュロスがそれぞれの民族に寛大な政策をとってくれたことでユダヤ人たちは解放されエルサレムへ帰還できることになり、神殿も再建できることになったというわけだ。
イザヤ書ではキュロスを「主が油を注がれた人」という言い方をしている。つまりキュロスが救世主、メシアであると言っているようだ。
そこまで言うかという気もするけれど、確かにキュロスのお陰で解放されることになった訳で気持ちは分かる気がする。
エズラ記では「主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。」(1:1)と書いてあって、神がキュロスの心を動かした、神がキュロスを遣わしてユダヤ人たちを解放させることにしたと言っている。
これはもちろんユダヤ人たちの解釈であって、キュロスシリンダーにはキュロスの信じていたマルドゥクという神の命令によって諸国を征服したと書かれているそうだ。
しかしユダヤ人たちをそのキュロスに命令して、キュロスをその気にさせたのは主なる神であったと考えている。
見えないものに
何事もたまたまだと思えることもできるし、神の導きだと思えることもできる。今呉にいることも、この教会に来ていることも、たまたまだと考えることもできるし、導きだと思えることも出来る。
これも神の導きだと、導きはあるんだと証明することはできない。そんなものはないと思って生きる生き方もあると思う。でもそれはたまたま起こる出来事を自分ひとりで自分の力だけで受け止めていくようなものだろうと思う。けれども導きがある、神の導きの中を生きていると信じて生きていくということは、自分ひとりだけではなく、自分を導いてくれている神と共に生きていくということだ。苦しみに遭うときにはどうしてこんな目に遭わせるのかと文句を言い、幸いを与えられる時にはありがとうと感謝する、そんな相手と共に生きるということだ。
目に見える歴史はキュロスによる解放だけれど、目に見えないところ、言わば歴史の裏側で導いてくれている神を見ていこうということを伝えているようだ。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二 4:18)
見えないところで私たちを支え、いつも共にいてくれている神に目を注いで生きたいと思う。