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礼拝メッセージより
歴史
ダニエル書が書かれた時代は、ユダヤ地方はセレウコス朝シリアに支配されていて、当時のシリア王であったアンティオコス四世はエジプト遠征の戦費をまかなうために、エルサレム神殿の財宝を略奪し、律法の書を焼かせ、安息日や割礼などの律法に従うことを禁止し、エルサレム神殿や国内の各地にギリシアの神ゼウスの像を置いて礼拝することを強制し、ヤハウェを礼拝することを禁止したそうだ。そして偶像礼拝を拒否して、ヤハウェを礼拝することを固守した者たちは殺されてしまった。そんな時代だった。
11章ではバビロンを破ったペルシャから始まって、ダニエル書が書かれた当時の時代までの歴史が予言風にまとめられている。アンティオコス四世による迫害についてと思われることも書かれている。
「民の目覚めた人々は多くの者を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒される。こうして倒れるこの人々を助ける者は少なく、多くの者は彼らにくみするが、実は不誠実である。これらの指導者の何人かが倒されるのは、終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである。まだ時は来ていない。あの王はほしいままにふるまい、いよいよ驕り高ぶって、どのような神よりも自分を高い者と考える。すべての神にまさる神に向かって恐るべきことを口にし、怒りの時が終わるまで栄え続ける。定められたことは実現されねばならないからである。」(ダニエル書11:33-36)
実は11章39節まではほとんど歴史通りになっているらしい。特に後半のシリアのセレウコス王朝とエジプトのプトレマイオス王朝との戦いなどはかなり詳しいそうだ。11章21節以下に当時ユダヤ地方を支配していたアンティオコス四世が登場する。29節以下の所にでは2回目のエジプト遠征をした時のことが書かれている。30節には「キティム」の船隊が攻めるので彼は力を失うとある。キティムとはローマの船団のことだそうで、アンティオコス四世はローマ軍によって退去を命じられしぶしぶ退去したようだ。そしてエジプトからの帰り道にエルサレムに寄り、ユダヤ教の徹底的な弾圧をしたそうだ。
40節からはアンティオコス四世が第3回目のエジプト遠征をして43節ではリビアとクシュ、これはエチオピアのことだそうだけれど、そこまで占領したように書かれているけれど、実際にはアンティオコス四世はローマに逆らってもう一度エジプトへ行く力もなく、そこからは現実とは合わないそうだ。
つまり39節までと40節の間にダニエル書がまとめられたということのようだ。将来こんなことが起こるだろうということをバビロン捕囚の時代に預言したという書き方をしているけれど、39節までは事後預言というそうで、実際にはその出来事が終わってから書いているのでその通りになっているけれど、40節以降は実際に起こる前の預言で、それ以降は実際の出来事とは合っていないそうだ。
ダニエル書が39節と40節の間にまとめられたということは、迫害に遭って苦難の真っ只中にいる時にまとめられたということだ。現実を見るとお先真っ暗、全く光が見えない、そんな時にまとめられたのがダニエル書だということのようだ。
復活の希望
12章では大天使長ミカエルが登場する。そしてある者は地の塵の中の眠りから目覚め、ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に恥と憎悪の的となる、と言われている。
しかしこられのことを秘めてこの書を封じておきなさい、つまり秘密にしておきなさいと言われる。
また川の岸に経つ人が麻の衣を着た人に、これはいつまで続くのかと聞くと、一時期、二時期、そして半時期、これは1年+2年+半年=3年半、つまり7年という完全数の半分ということで、限られた期間、短い期間ということだと思うけれど、聖なる民の力が全く打ち砕かれるとこれらのことは全く成就すると言う。
民が絶望してしまうような事態が起こる、しかしその時にすべてが成就する、新しい世界、新しい時代がやってくるということのようだ。今は苦難の時代である、けれどももうすぐ終わり新しい時代がやってくる、それがダニエル書のメッセージであるようだ。
目の前には絶望するしかないような現実がある。しかしそれはこの苦難の終わりを告げる時でもある、もうすぐ終わる、そして新たな時代が始まるということだろう。
きぼう
ここでは永遠の生命なんて言葉があるけれど、旧約聖書では死んだ後、来世について書かれているところはほとんどないそうだ。
あまりに激しい迫害にこの世での希望を持てなくなっているということなのかなと思う。信仰を守り通すことで殺害されていくという現実を前にして、残る希望はあの世にしかないということでもあるのかもしれないと思う。
しかし苦難しか見えない時に、希望の種が全く見えない時に、それでも希望を持ち続けることができるというのはすごいことだ。
目に見える希望の種がないときに、目に見えない神に希望を持つことで、この苦難を耐えていこうということをダニエル書は伝えているかなと思う。
ユダヤ人たちはどうして命をかけてまでこの神を信じていたのだろうか。
自分の信仰を貫くという言い方があるけれどちょっと違う気がする。信仰を貫くというと、自分の持っている信仰というものを必死で守り抜くようなイメージがあるけれど、それとはちょっと違う気がする。自分の持っているものを守り抜くのではなく、自分に何もないけれど神に希望を持つ、希望の元である神に縋り付いていくといったことなんじゃないかと思う。
これが真実だからとか、これが本当の神だからとか、これが本当の信仰だからそこからそれてはいけないからということではなく、それよりもこの神にしか縋れない、だからどこまでも縋っていったということなんじゃないかなと思う。
自分の信仰を必死に守ろうとしたというよりも、神に縋るしかなくなっていたということなんじゃないかと思う。そこにしか希望を持てないからこそ縋っていたということなんじゃないかと思う。
あきらめない
相変わらず会堂のメンテナンスで一体何百万いるのかと戦々恐々としている。先日普通の家で同じようなメンテナンスをして400万円かかったなんて聞いて、だったらこの会堂だと倍くらいはするんだろうなあなんて思って、全然お金ないのに一体どうすりゃいいんだと暗い気持ちになっている。
でもお金で済む話しだったらまだいいような気持ちもある。なかなか治らない病気を抱えていたり、思うように動かない体を抱えていたり、しかもだんだんと悪くなっていったりすると気持ちは落ち込んでいくばかりだろうと思う。あるいは人間関係が崩れてしまってどうにもならなくなっていたりする時の苦しみは大変なことだ。お金ですぐ解決できない苦しみもいっぱいある。
苦しみの中にあっても解決の道筋が見えていればいいけれど、その道筋が全く見えないような時、そんな時私たちはどうすればいいんだろうか。
神様がきっと守ってくれる、と思えるならば、固く信じることが出来るならば落ち込まなくてもいいのかもしれない。けれどなかなかそう思うこともできない。神がきっとどうにかしてくれると思える時もあるけれど、やっぱり心配になって夜中に目覚めるような時もある。祈りなんていう格好いいものでもないけれど、どうにかしてよと神様に訴えてもそれで落ち着ける時もあれば、全然落ち着けないときもある。
でもそうやって愚痴をこぼしたりお願いしたりする相手がいるということはありがたいことだ。縋る相手があるということは幸せなことだと思う。
祈る相手があるということ、自分の不安や嘆きや絶望をぶつける相手があること、縋り付く相手があること、それはとても幸せなことだと思う。
聖書は、私たちがそうやって縋り付く神、縋り付くイエス・キリストは、いつも私たちといっしょにいて私たちを大事に思ってくれている、そういう方だと教えてくれている。その相手に祈っていくことができる、それはとても幸せなことだと思う。何があってもこの神は私たちと一緒にいる。いつも一緒にいる。
『私たちの最も大きな弱点は、あきらめることである。
成功するための最も確かな方法は、いつも、もう一回だけトライすることである。』(トーマス・エジソン/発明家)
神が私たちの願いどおりに奇跡を起こしてくれるとは限らない。そんなことはめったにないような気がする。けれど、もう一回だけトライしようかという気持ちにさせてくれる、そんな力を与えてくれる神なのだと思う。
私たちの絶望する心に希望を与える、もう一回やってみようという気持ちを与える、もう少し生きてみようという力を与える、私たちの神は、イエス・キリストは、そんな風に私たちの心に力と勇気を与える、そんな仕方で私たちを支えてくれているのではないかと思う。
もうだめだと思っている時に、もう一回だけやってみようかと思える、それこそが一番の奇跡なのではないかと思う。
私はお前を愛している、大丈夫、お前には力がある、お前はすごいんだ、お前はなんでもできる、イエス・キリストは私たちにそう語りかけてくれているように思う。
イエスがやもめのわずかの献金に対して、この人は誰よりも多く入れたと言ったことがあった。イエスは、私たちがこんな少ないもの、こんな価値のないもの、こんな駄目な自分と思うことに対して、誰よりもいっぱいだ、絶大な価値がある、お前はすばらしいと言っている。イエスはきっとそういう見方で私たちを見てくれているんだろう。
メッセージの題を「あきらめない」にしたけれど、私たちではなくイエス・キリスト自身が、私はお前のことを決してをあきらめない、いつまでもあきらないめない、絶対に見放さない、絶対に見捨てない、どこまでもお前と一緒にいる、そう言われているように思う。