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礼拝メッセージより
70年
ダレイオス一世は紀元前522年だそうで、その時のダニエルの祈りということになっている。バビロン捕囚の憂き目に遭っている時期で、荒廃したエルサレムが復興するのはいつなのかを悟ったという設定になっている。もっともダニエル書が書かれたのは紀元前168年頃だそうで、シリア王アンティオコス・エピファネスの迫害に苦しめられた時であって、9章はその迫害がいつ終わるのかを追求した預言であるようだ。
9章の物語は、ダレイオス1世の治世1年、ダニエルはエレミヤ書を読み、エルサレムが荒廃から救われるためには70年の時が必要であることを知り、この70年をめぐって黙想するという設定になっている。
エレミヤ書25:11-13には、「25:11 この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。 25:12 七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる。そして、そこをとこしえに荒れ地とする。25:13 わたしは、この地についてわたしが語った言葉、エレミヤがこれらすべての国々について預言し、この巻物に記されていることを、すべて実現させる。」と書いてある。
そのことを知って祈ったというのが今日の箇所になる。
ばちが当たる?
ここを読みながら、自分達がどれほど神に逆らって生きてきたかという反省の弁を述べているような気がした。バビロン捕囚から帰って来て神殿も再建されたのに、今またシリアのアンティオコス・エピファネスに迫害されている。その原因は自分達が神の命令に従わず逆らってきたからだと考えているようだ。その反省の言葉がつらつらと書かれているなあと思う。
そう思いつついろいろと気になる言葉がある。
4節「主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守っていつくしみを施される神よ。」
7節「あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠くにまた近くに住むイスラエルの民すべてが、今日のように恥を被っているのは当然なのです。」
11節「イスラエルはすべて、あなたの律法を無視し、御声に耳を傾けませんでした。ですから、神の僕モーセの律法に記されている誓いの呪いが、私たちの上に降りかかってきたのです。」
14節「主はその悪を見張っておられ、それをわたしたちの上に下されました。」
16節「主よ、常に変わらぬ恵みの御業をもってあなたの都、聖なる山エルサレムからあなたの怒りと憤りを翻してください。」
旧約聖書を読んでいると神様って言うのはここに言われているように、神の命令を忠実に守っている時にはいいものを与えてくれるけれど、ちょっとでも命令に守っていないと災いを起こす神であり、人間の見張っていて悪いことがあると罰を与える神で、基本的には怒りと憤りに満ちている神のように感じる。だから旧約の人たちは神を怒らせないように気をつけていて、何かしでかした時にも一所懸命になだめようとしているようだ。
かつて先祖たちがエジプトで苦しんでいるときには助けてくれたありがたい神だけれど、基本的にはちょっとでも背くと何をされるかわからない恐ろしい存在のように思っていたように思う。
放蕩息子
最近旧約聖書を見ていて感じるのは、イエスが伝えてくれている神の姿とはまるで違うなということだ。
新約聖書ルカによる福音書15章に「放蕩息子のたとえ」というイエスが語った譬えが載っている。父親がまだ生きているのに財産を分けてくれと言って家を出て行った弟が、放蕩してすっからかんになって仕方なく家に帰ってきた。弟の帰りをずっと待ち続けていた父親は宴会を開いて大喜びした。そんな甘すぎる父親に文句を言った兄に対して父親は、弟は死んでいたのに生きて帰ってきたんだから祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前だと言ったという話しだ。
神とはこの父親みたいな思いで私たちを見つめている、私たちの間違いも失敗もだらしなさも全部ひっくるめて私たちを受け止めてくれている、イエスはそのことを伝えてくれているように思う。旧約時代の人たちが思い描いている神の姿とは全然違うなと思う。神に従わなければ、ちょっとでも背いたら、神が怒って罰を与えるなんてことをイエスは全然言ってないと思う。
またヨハネによる福音書9章には生まれつきの盲人をいやすという話しがある。その中で弟子たちが、この人が目が見えないのは誰が罪を犯したせいなのかと聞いた。弟子たちも誰かが罪を犯したから生まれつき目が見えなくなっていると考えていたのだろう。それは病気や障害は罪の結果であるという旧約時代からの考え方でもあったようだ。しかしその時イエスは、本人が罪を犯したのでも、両親が犯したのでもない、神の業がこの人に現れるためだと言った。
愛されてるから
神は怒りに満ちていて、その神を怒らせないために、怒らせて罰を受けないために神の命令に従う、それが旧約時代のユダヤ人の生き方だったように思う。少しでも道をそれないように、事細かな決まりを作って一所懸命に守っていたようだ。
でもイエスはそれは違うと伝えてくれていると思う。神が私たちを愛してくれているから、徹底的に愛してくれて、徹底的に肯定してくれている、だからこの神に聞きなさい、この神に従いなさいと言われているのだと思う。そんな風に神に愛されているから、あなたも神を愛しなさい、そして隣人を愛しなさいと言われている。
人生には苦しいことや辛いこと、思うようにいかないことがいっぱいある。そんなものを取り去って欲しいと願うけれどもなかなか思い通りにはならない。どうして神がそれと取り去ってくれないのか分からない。神の業が現れるためなのかどうか分からないし、そんなこと言われてもと思う。
苦しいことがいっぱいある、けれどもこの私を、このままの私を神が大事に思ってくれているから、大切に思ってくれているから、だから私たちは愛してくれている神に聞いていく、従っていく。
罰を受けないためではなく、愛されているからこの神を信じ従っていくのだ。