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礼拝メッセージより
舞台
物語の舞台はバビロニアからメディアへと変わり、ダレイオスという人が王となっている。実際にはバビロニアが滅びた時にはすでにメディアは滅ぼされていて、メディアにはダレイオスという王はいなかったそうだ。
今日の物語にもダニエルが登場する。バビロニアでは夢を解く能力を持つことで重用されていたダニエルだったが、今日の所では役人としての能力を持っていて、6章2節以下によると、120人の総督から報告を受ける3人の大臣のうちにひとりとなっている。夢を解いたり大臣になったり、創世記に出てくるヨセフに似ている。
出来すぎたダニエルを他の役人たちが妬んだようで、ダニエルを陥れるために策略を練る。そのために、向こう30日間王を差し置いて他の人間や神に願い事をする者を獅子の洞窟に投げ込む、という禁令を王に出させようとする。
そこからが今日の箇所となり、王はその禁令を発布し、策略はまんまと成功する。
ダニエルはその禁令のことを知りつつ、いつものように日に三度エルサレムの方へ向かって祈り讃美していた。役人たちはダニエルを捕まえて、禁令を破ったからライオンの洞窟へ投げ込むように王に進言する。
王はダニエルがお気に入りだったようで、ダニエルを助けようと考えるけれども、一度出した命令は変更できないということで、お前の拝む神が守ってくれるように、と言いつつライオンの洞窟に投げ込む。王は心配しながら一晩過ごし、夜明けと共に洞窟に行くが、ダニエルは無事であって、神がライオンの口を閉ざしたから大丈夫だった、自分は無実なのだ、王に背いたこともないと言う。王は今度はダニエルを陥れようとした者たち獅子の洞窟に投げ込ませ、そうすると獅子は彼らを骨まで噛み砕いたという話しだ。
ほんまか
命の危険が迫っても、ダニエルのような信仰があれば大丈夫、神が必ず守ってくれるのだ、どんな危機に直面した時でもダニエルのようにいつものように神に祈り讃美していきましょう、というような話しなのだろうか。ダニエルはこんなに立派な信仰者だったのだ、私たちもダニエルのように素直に信じましょう、ということなんだろうか。
でも何があっても淡々といつものように過ごすなんてあり得るのだろうか。自分の身に命の危険が迫っても全くうろたえることもない、なんて人間いるんだろうか。そんな人間になりましょうなんて言われてもなれるわけないだろと思う。
迫害
このダニエル書がまとめられたのは、紀元前2世紀ごろで、当時ユダヤ地方は、セレウコス王朝に支配されている時代だったそうだ。そのセレウコス王朝のアンティオコス四世は、エジプト遠征の戦費をまかなうために、エルサレム神殿の財宝を略奪し、律法の書を焼かせ、安息日や割礼などの律法に従うことを禁止し、エルサレム神殿や国内の各地にギリシアの神ゼウスの像を置いて礼拝することを強制し、ヤハウェを礼拝することを禁止したそうだ。そして偶像礼拝を拒否して、ヤハウェを礼拝することを固守した者たちは殺されてしまった。そんな時代だった。
経緯は違っても今日のダニエル書に書かれていることと同じように、自分の神に祈ることを禁止されている時代だったわけだ。
ダニエル書ではダニエルは禁令に背いてもライオンに食べられることはなかった。しかし紀元前2世紀の現実では自分達の神に祈ったために処刑されてしまっているわけだ。その当時の人達はこのダニエル書をどんな気持ちで読んだのだろうか。ダニエル書を読んでどう思ったのだろうか。
そう思うと神に信頼していれば守られるのだ、なんて簡単には言えない。というか全然言えないと思う。
苦しみ
そう思いつつ、昔読んだ話を思い出していた。ある人が目が見えなくなってだったか耳が聞こえなくなってだったか忘れたけれど、そうやって身体が不自由になったことでいろんな宗教に行ったそうだ。だいたいどこでも祈れば治るとか信じれば治ると言われたそうだ。その後あるキリスト教会へ行き治るかと聞いたところ、そこでは治らないと言われた。そしてその人はここは本物だと思ってそれからその教会へ通うようになったという話しだった。
たまに相談したいことがあると連絡してくれる人がいる。そんな時はどういうことを言ったら礼拝に来てくれるかな、なんてせこいことばかり考えてしまうけれど、私たちの信仰は、やっぱり祈れば治る、信じれば助かる、というような単純なことではないと思う。治らないのは祈りや信仰が足りないから、と言うのはすごく明快でわかりやすいけれど、人生はそんなに単純ではないし、神を信じることだってそんなに明快ではないだろう。
ダニエル書が書かれたのはアンティオコス四世による迫害に遭っている時のことで、さっきも言ったけれど、その時の人たちはこのダニエル書を読んでどう思ったのだろうかと考えた。
どんな大変な状況でも疑いなく信じていれば神は守ってくれるんだ、被害を受ける人はしっかり信じていない人だと思う人もいたかもしれない。あるいは逆にいくら神を信じていてもこんなにうまいこと行くわけない、現に殺されている人達だっているしと思う人もいたかもしれない。
どっちが正しいのか、どう感じることが正解なのかと考えていたけれど、正解なんてないんじゃないかという気がしている。正解はこちらですなんて言われても自分が本当にそう思えないとしたら意味ないよなと思う。
万人に共通する正解なんてなくて、これを読んだ人がその時に感じることがその人にとっての正解なんじゃないのかなという気がしている。これは現場放棄なのかな。
今回ダニエル書を読みながら、ダニエルのように守ってもらえるならば苦労しないよ、でも現実はそんなにうまくはいかないよと思った。そう思いつつ、でもこれを書いた人はそんなおとぎ話みたいなことを言いたかっただけなんだろうかとも思った。
本当の自分
昔したこの箇所のメッセージでも言った話しだけれど、、、。
ある祈りの本の中にこんな言葉があった。
「自己を断ち切る祈りは、願いを断たれた死の灰燼から飛び立つ神の不死鳥となる。」(「祈り」奥村一郎 女子パウロ会)
自己を断ち切るってのはどういうことなのか分かりにくいけれど、自己満足を求めない、自分の願いとか願望とかに執着しないということかなと思う。自己を断ち切る祈りってのは、自分の願いを叶えることを求めない祈りということかなと思う。そんな願いが叶うか叶わないかということに捕らわれない祈りは、願いが叶わなかったという死の灰燼から飛び立つ神の不死鳥となると言っているように思う。
叶う叶わないということも含めて、そんな自分をすべて神に預ける事が祈りなのかもしれないと思う。自分の勝手な願いを一所懸命に神に訴える自分も、それが叶わないと嘆く自分も、本当の自分を全部神に持って行くこと、それが祈りなのではないかと思っている。
実はそんな本当の自分を神は守ってくれる、受け止めてくれる、そんな本当の自分を神は大事に思ってくれている、イエス・キリストはまさにそのことを伝えてくれているように思う。
ダニエル書の獅子とは、私たちを本当の自分で無くそうとする力、偽りの自分へと変えようとする力のような気がしている。
疑いを持つ自分、邪悪な心を持つ自分、少しのことで不安になったり逆に傲慢になったりする自分、失敗し挫折する自分、そんな本当の自分を、そんなことではダメだ、お前は誰からも認められない、お前を神は顧みない、そんな声がどこからともなく聞こえてくる。
そんな声こそがダニエル書の獅子ではないかという気がしている。そんな本当の自分を否定する力、偽りの自分へと変えようとする力から神は私たちを守ってくれるということなのではないかと思った。
祈りが叶うことも叶わないこともある。叶うんだろうかと疑う自分も、叶わなかったと嘆く自分も、叶ったと喜ぶ自分も、ぜんぶひっくるめて、そんな本当の自分をそのままに受け止めてくれている、そんなお前が大好きだと言ってくれているのだと思う。