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礼拝メッセージより
夢
夢って面白いし、不思議だし、それにちょっと恐い。大学の単位が取れなくて何年も留年して全然卒業できそうにないという夢を未だに見る。あるいは結婚式のためにホテルに向かっていて、どんどん時間が迫ってくるのにいつまでたっても着けないなんて夢も見る。ストレスが溜まっていると悪夢を見るそうだけれど、確かにそんな気もする。
毎晩悪夢にうなされるなんてことになったらどうなんだろうと思ったりする。起きてるときなら助けを呼ぶことも出来るけれど、夢の中だと誰かを呼ぶこともできない。そうなると神さまに助けてもらうしかないよなと思う。
それは兎に角昔は夢で神のお告げがあると考えられていたようで、聖書の中にも夢で告げられたというようなことが出てくる。そしてその夢の意味を解くと言う話しは、創世記のヨセフの話しにも出てくる。
夢を解く時には、普通はどんな夢なのかを聞いてそれを説明するけれども、今回のネブカドネツァル王の夢を解く話しでは、王は自分の見た夢さえも教えなかったという。ネブカドネツァル王は夢の内容を教えもしないでそれを解け、という無茶な命令を出したということだ。夢の内容を聞いてからだと適当の解釈できるだろうから、夢の内容まで言い当てる物こそ本物だということかな。
王は賢者たちに自分の見た夢を言い当てろ、そしてそれを解釈しろ、できなければお前たちを八つ裂きにする、なんてことを言い出した。賢者たちは解釈するのでその夢を聞かせてください、と当然のように言う。しかし王は賢者たちに八つ裂きにされたくないために時間稼ぎをしているだけだ、夢を話して見ろ、と言ったという。どうしてそれが時間稼ぎなんだろうか。賢者たちはそんなこと誰もできない、できるのは神だけだ、と答えるけれど、王は怒ってしまってバビロンの知者を皆殺しにしろ、と命令を出した。どうしていきなり知者を皆殺しにしようとするんだろうか。皆殺しにしたら解釈してくれる人がいなくなってしまうだろうと思うけれど。
ダニエルたちもその知者の内に含まれていたということらしい。侍従長が知者であるダニエルたち4人を探しに来た。そこで処刑されることになったことを知ったダニエルは、王のもとにいって夢の解釈をするからしばらく時をくれと言った。最初に賢者たちが行った時には時間稼ぎは許さないようなことを言ってたけれど、、、。
ダニエルがこのことを祈ると、夜の幻によってその秘密が明かされた。ダニエルは夢の解釈をすると侍従長に伝え、侍従長はダニエルを王のもとに連れて行った。2:25で侍従長がダニエルを王の元に連れて行って、ユダの補囚の男が夢を解釈すると言っています、と伝えたと書いている。その前の16節でダニエルが王のもとへ行って、ちょっと待ってくれと伝えた話しはどうなったんだろうか。
この物語にはつじつまが合わないことがいろいろあるなあと思う。
巨像
2章の後半ではダニエルが王の見た夢を告げて、その夢の解説をする。
王が見たのは、頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土でできた巨像だった。そして一つの石がその像の鉄と陶土の足を打ち砕き、足だけでなく身体全部が砕け、石は大きな山となり全知に広がった、そんな夢だった。
それに続いてダニエルが夢の解説をする。金の頭とはバビロニアのことで、
銀の胸と腕は2番目に興る国、青銅の腹と腿は3番目の国、鉄と陶土の足は4番目の国である、そして人手によらずに切り出され像を破壊した石とは、神が永遠に滅びることのない一つの国を興されるということである、とダニエルは話した。
それを聞いたネブカドネツァル王はダニエルを拝み献げ物と香を供えて、あなたたちの神がまことの神々の神、すべての王の主だと言い、ダニエルに贈り物をしてバビロン全州を治めさせ、ダニエルの仲間たちもバビロン州の行政官に任命した、という話しだ。災い転じて福となす、という感じかな。
歴史
このネブカドネツァル王の見た夢がどの国のことなのか、ということだけれど、歴史的には、今のイラン北部にメディア帝国という国が興る。しかしメディアもペルシャ帝国に滅ぼされ、その後アレクサンドロス大王はマケドニア帝国をペルシャ帝国と同じような大きな国にする。このマケドニアはアレクサンドロス大王の死後にシリアのセレウコス王朝とエジプトのプトレマイオス王朝に分裂する。しかし後に政略結婚によって二つの王朝が結びつこうとしたけれども、一つになることがなかったそうだ。これは43節の、人々は婚姻によって混じり合います、ということとぴったりだ。
このダニエル書がまとめられたのは、ユダヤ人たちがセレウコス朝に支配されている時代だった。セレウコス朝のアンティオコス四世は、エジプト遠征の戦費をまかなうために、エルサレム神殿の財宝を略奪し、その後ユダヤに対する徹底的な宗教弾圧を開始した。律法の書を焼かせ、安息日や割礼などの律法に従うことを禁止し、エルサレム神殿や国内の各地にギリシアの神ゼウスの像を置いて礼拝することを強制し、ヤハウェを礼拝することを禁止した。そんな中でも偶像礼拝を拒否して、ヤハウェを礼拝することを固守した者たちは殺されてしまった。
そんな時代に生きる人達を励ますためにダニエル書はまとめられた。かつて自分達を苦しめて補囚していったバビロニアもやがては滅ぼされた。ペルシャも滅んだ。ペルシャと同じように大きな領土を持っていたマケドニアも分裂している。
どんなに強い国もやがては滅んでいくものであるということ、そして今の苦しみも必ず終わりが来るということ、ダニエル書を読むユダヤ人たちはそのことを再確認したことだろうと思う。
神殿の財宝も持ち去られ、律法を守ることも自分達の神を礼拝することも許されずギリシャの神を拝むことを強制される時代だった。しかしそんな苦しい時もやがては終わる、自分達の苦しみもやがては終わる、神が終わらせてくれる、そのことを思い出させるためにこのダニエル書はまとめられたのだろう。
すがりつく
苦しみの中にある時にはその苦しみにばかり目を奪われてしまう。ついつい悪い方へ悪い方へと考えてしまう。もうだめだ、どうしようもない、と諦めてしまい、なんて自分は駄目な人間なんだと思ってしまう。
でもダニエル書は、夢の内容も教えないので解釈しろなどというネブカドネツァルの無茶苦茶な要求の前に、絶体絶命のピンチに立たされたダニエルを神は守ってくれたのだ、そして今はダニエルと同じように苦しい状況にある、しかしこの苦しみもやがて終わりがある、その後に新しい時代が来るのだ、神が新しい時代を来させる、そんな希望を与えようとしているのだと思う。
ふと潔のかあちゃんのことを思い出した。潔という友達がいる。父親は牧師だったが、晩年にアルツハイマー病になり、それまで優しかったのに冷たい事を言ったり、いやなことがあると突き飛ばしたりすることもあったそうだ。引退後は二人でゆっくり過ごすつもりでいた潔の母ちゃんだったが、その願いも叶わず、それどころかだんだんと暴言を吐いたり無口になったりする夫の世話に疲れ果ててしまうようになったそうだ。
その母ちゃんが手記の中で、イエス・キリストが十字架につけられた時に言った言葉、わが神わが神どうして私を見捨てたのですか、という言葉にすがりついていた、と書いてあった。
祈っても祈ってもよくならない、だんだんと悪くなるような状況で、どうしてこんなことになるのかと思うばかりだったらしい。神よどうして私を見捨てたのか、と言うしかない状況で、しかしそこに同じように、どうして私を見捨てたのだと言うイエスがいた、そしてその言葉にすがりついていた、と書いてあった。
希望
最後の希望はそこにあるんじゃないかと思う。どうして私を見捨てたのかという時にも、そこにイエスがいてくれること、決してひとりぼっちにならないことだと思う。苦しい状況を神が終わらせてくれるだけではなく、その苦しみの最中にもイエス・キリストが共にいてくれている、そこに私たちの最後の希望がある、そしてそれは実は最高の希望じゃないかという気がしている。
絶望の淵に立たされる時、しかし私たちにはすがりつくことが出来る方がいる、すがりつくイエス・キリストがいる、しかもイエス・キリストは私たちを大事に大切に思ってくれている方だ。本当はこのイエス・キリストの方が私たちをしっかりとつかまえてくれているのだと思う。だから私たちはこのイエス・キリストに安心してすがりついていたいと思う。