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礼拝メッセージより
力
「私たちは愛の力が、力を愛することと置き換わる時が来るのを期待している。
その時、私たちの世界は平和の祝福を知るようになるだろう。」
(ウィリアム・グラッドストン/19世紀の英国首相)
人間ってのは力を愛する生き物なのだろうか。古来人間はずっと戦ってきたようだ。そして今でも戦っている。
人類が誕生してから人間はだんだんと成長してきて、この世界もだんだんと良くなってきているのかと思っていた。昔は戦争をしたりもしていたけれど、それもだんだんと無くしていく、平和を目指す方向へ向かっているのかと思っていた。
でも実際にはそうとは限らないようだ。未だにいろんなところで戦いがある。どうして戦うんだろうか。自分の欲望を満たすために戦うというか、戦ってでも欲望を満たしたいと思う気持ちってのは人間の本能かもしれないと思う。
欲望自体を無くすことは出来ないだろうけれど、欲望の赴くままに生きるとしたらただの動物でしかないのだろう。自分の欲望を満たすため力を求めることになり、力を愛することになるのだろう。
人間らしく生きるということは、自分の欲望と折り合いを付けながら生きていくということなんだろうと思う。
神の武具
今日の聖書には神の武具を身につけろと書かれている。当時はローマ帝国が力を持っていて、実際に武具を身につけているローマの兵隊を目にすることも多かったんだろうと思う。それになぞらえているのかなとも思う。
しかしこの手紙で言っていることは、神の武具を身につけて対峙する相手は兵隊ではなく、悪人でもなく、悪魔であり、悪の諸霊だ。
悪魔とはどんなものか。悪魔というとなにか怪物のような姿をしていて、時には人に悪さをする恐いものと、人に取り憑いておかしくしてしまうようなものというような感じだろうか。
時々、何でもかんでも悪いことがあると悪魔のせいにするような人もいる。自分が望まないことが起こると、たとえば病気になったり、災害にあったり、けんかしたりすると、それがみんな悪魔のせいだ、というように言う人がいる。それは結構便利な考え方ではある。それは悪魔のせいだ、誰かが悪いのではなく悪魔が悪い、という考え方はなかなかいい方法だなとは思う。何でもかんでも自分が悪いのだと自分を責めてばかりよりは、悪魔のせいだと思う方が健全化もしれないという気はする。逆に自分の失敗も間違いも悪魔のせいにしてしまって無責任になるのは困りものだけれど。
しかし聖書の言う悪魔とは、そんなお化けのような存在というよりも、人を神から遠ざける、神のことを考えさせないようにする、神のことを忘れさせるものの総称、そういうものを悪魔と呼んでいるようだ。そしてそんな悪の力、それがここでいう私たちの戦う相手なのだろう。
とにかく私たちの戦いは、人間と戦うのではない。目に見える人間をやっつけるのではない。見えない悪の力と戦うというのだ。
武具
そのために、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物とし、信仰を盾とし、救いを兜としてかぶり、霊の剣という神の言葉を取りなさいと言われている。
これはどうやら旧約聖書の言葉が影響しているそうだ。
イザヤ書
11:4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
11:5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。
59:17 主は恵みの御業を鎧としてまとい/救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい/熱情を上着として身を包まれた。
知恵の書(旧約聖書の続編)
5:17-21 主はその激しい憤りを武器とし、敵を懲らしめるため、被造物を武装させられる。主は正義の胸当てを着け、偽りのない裁きの兜をかぶり、御自分の清さを堅固な盾とされる。主は激しい怒りを鋭い剣とし、宇宙は主に味方して愚かな者どもに戦いを挑む。ねらいの定まった稲妻の矢が放たれ、引き絞った雲の弓から的を目がけて飛んで行く。
この手紙はこの旧約聖書のイメージを念頭に書かれているようだ。
しかしまあ真理とか正義とか、そんなものどうやって身に着けるのだろうか。正直よく分からない。一番分かるのは「神の言葉を取りなさい」ってことだ。実はこれに尽きるんじゃないかという気がしている。
悪魔の策略と言っていいのかどうかよく分からないけれど、人間を痛めつけるいろんな力があるけれど、その中の大きなものの一つが自分を否定するという思いではないかと思う。
実は全体修養会で記念誌を作るということで原稿を依頼されているけれど、明日が締め切りなのに未だに出来ないでいる。明日の夜中12時までに送ればいいかなんて思っている。あるいは牧師会の内容もどうしようかと思いつつ全然決められないでいる。
これでいいと思えないというか、そんなものではダメだ、まだまだダメだという気持ちが強くて決められないでいる。
そもそも礼拝の人数も減って、教会も小さくなるばかりで、何の成果も残せてないし、牧師失格だという気持ちが強い。そんな自分を否定する気持ちが強い。そんな気持ちだからいろんなことが滞ってしまう。何かをする元気もなくなってしまうし、ちょっとしたことも面倒に思えて後回しにしてしまう。
そんな思いで今日の聖書を見ていた。神の武具って、どうやって身に着けるのかなんて思いつつ、神の武具とは、お前はダメだ、お前はまだまだだというような自分を否定する言葉から身を守るものではないかと思った。この手紙は、自分を守るための武具を身につけろ、無防備で攻撃されてはいけない、自分で自分を責める気持ちからも身を守れ、そんなことを言われているような気がしている。
神の言葉を、キリストの言葉をしっかり聞きなさい、お前が大切だとか、お前を愛しているとか、この人はよいことをしてくれたのだとか、あなたの信仰があなたを救ったとか、そんなイエスの言葉をしっかり聞きなさい、その言葉を身につけなさい、その言葉こそがあなたを守る神の武具なのだ、そう言われているような気がしている。
偉大な力
「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と言われている。あなたは自分の力で強くなるのではない、神の力で強くなるのだ、あなたには力がなくても大丈夫、神の偉大な力があなたを強くするのだと言われている。
そして神の偉大な力とは、実は愛の力なのではないかと思う。神に絶大に愛されているという愛の力によって私たちは強くなるのだ。神の愛の力が私たちを守ってくれる。だからこそイエスの愛の言葉をしっかり聞いていきたいと思う。