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礼拝メッセージより
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みだらなことやいろいろの汚れたこと、貪欲なことを口にするなとか、卑猥な言葉や愚かな話し、下品な冗談もやめろみたいなこと書いてるけど、もっと具体的に言ってくれないとどういうことなのか分からないよと思う。
みだらな者、汚れた者、貪欲な者、つまり、偶像礼拝者はキリストと神との国を受け継ぐことはできませんって言ってる。偶像礼拝者がキリストと神の国を受け継ぐことができないのは分かるような気がするけれど、偶像礼拝者ってのはみだらで汚れていて貪欲な者のことなのか?そしてそんな人たちに神の怒りが下るのか?
なんだかよく分からないことがいろいろと出てくる。
よく分からないけれど、16節に「今は悪い時代なのです」とあるような時代なので、その悪に染まってしまうのではなく、ただそれに流されるのではなく、神に倣う者となり、光の子として歩むように、と言われているんだろうなと思う。
暗闇と光
8節では、あなたがたは以前は暗闇であったと言われている。以前は暗闇の中にいたというのではない。暗い環境の中にいたというのではなく、暗闇であった、暗闇そのものであったというのだ。なんだかすごい言い方だ。
しかし今は主に結ばれて光となっている、という。ここでも光に照らされていると言うのではなく光となっているという。光そのものとなっているというのだ。主に結ばれて光そのものとなっているという。主に結ばれるということは、イエス・キリストに結ばれるということは、私たちが光となるということみたいだ。自分自身信じられないようなことだけれど、光とされているというのだ。
私たちは自分のことを省みるときに、本当に光とされているのだろうか、本当はまだ光とはなっていないのではないか、もっともっと自分を正していかないと、もっともっと努力していかないと光とはなれないのではないかと思うことが多いのではないかに思う。でもなかなか努力もできないし、結局は私は光にはなれない、私は駄目な人間なのだ、なんて思うことが多いのではないか。
しかし聖書は、今は主に結ばれて光となっているという。もう光となっている、だから光の子として歩みなさいという。
突然そんなこと言われてもというようなことだ。
父親になることとちょっと似ているような気がする。母親は胎内で子どもが成長してくるという自分の変化を感じながら母親になっていくような気がするけれど、父親は自分の変化がなにもない。ただ子どもが誕生した瞬間に突然父親になる。
なのに、父親となった者が、私は父親となっているのだろうか、父親としてふさわしいのだろうか、駄目かもしれない、きっと駄目だ、なんてことばかり思っていては子どもは大迷惑だ。子どもから言えば、私がいるからあんたは父親なのだ、ということだ。何がどうあろうと私がいるからにはあなたは父親なのだということだろう。
私たちも私たち自身に何も変化がなくても、イエス・キリストに結ばれることで突然に光となる、光の子となるわけだ。
もう光とされているのだから、光の子として、光の子らしく生きなさい、と言うのだ。そして光の子らしく生きるということは何が主に喜ばれるかを吟味しながら生きるということなのだ。
感謝
光とされているから、細かく気を配って歩みなさいとか、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい、そしていつもあらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさいと言われている。
昔呉の牧師会で話しをしてたときだったと思うけれど、確か大学生になって引っ越した教会員がいて、環境が変わったけれど、自分はクリスチャンだから、酒は飲まないとか、タバコも吸わないとか、あれもこれもしないと、いろいろと信念をもって守っているというような話しをしていた。それを聞きながら、なんだかしないことばかりだなあと思ったことがある。
クリスチャンはこういうことはしない、こういうことはしてはいけない、という話しは確かによく聞くけれど、そうすると何もしないでじっとしていることが一番いいクリスチャンになってしまいそうだなと思った。
親が自分の子どもがどんな人間になって欲しいかと聞くと、人に迷惑をかけない人間になって欲しいと答える人が多くいるそうだ。人からされていやなことを人にもするな、ということをよく聞く。けれどもイエス・キリストは、自分が人からしてほしいと思うことを人にもしなさい、と言われる。イエスはこれをしてはいけない、ということよりもこれをしなさいと言われているように思う。
イエスの言う一番の掟は人に迷惑をかけるな、ではなく人を愛しなさい、ということだ。実際人に迷惑をかけずに生きることはきっとできない。みんないろんな人に迷惑をかけながら、世話になりながら生きている。自分は迷惑をかけてないなんて思っている人間は相当傲慢な人間ではないかと思う。自分も人に迷惑をかけている、だから自分も人から迷惑をかけられることを受け入れる、さらに相手のことを思いやりながら生きる、本当はそんな生き方を目指すべきではないのかと思う。何かをしないことではなく、何かをすることを目指していく、それがクリスチャンらしい生き方なのではないかと思う。
10節では、何が主に喜ばれるかを吟味しなさい、と言われている。小さい頃から何か悪いことをするとバチが当たる言われてきて、そんな考え方が植え付けられているような気がする。そうすると、神はいつも自分を見張っていて、少しでも悪いことをすると罰を与える、そんな風に思ってしまう。これは悪いことかそうではないのか、これは怒られることかそうではないのかという風に考え、罰をうけないためには何をしてはいけないかという考え方、つまり何が主に喜ばれるかではなく、何が主に咎められるかということを考えるようなる。
主に咎められないことを考える生き方と、逆に何をすれば主に喜ばれるのかと考える生き方とはまるで違う生き方になると思う。相手を喜ばせようと思っている時っていうのはとても楽しい。これをすれば喜ぶだろう、なんて思いつつ生きるのはとてもうれしいことだ。恋人のことをいつも考えて生きているようなものだ。そしてそんな風に何が主に喜ばれるかを吟味して生きなさい、と言われている。そしてそれこそが光の子としての生き方なのだと思う。
細かく気を配って
また愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさいと言われる。神の声を聞いて神の御心を知っているあなたたちはもう愚かな者ではない、賢い者となっている、だから賢い者として細かく気を配って歩みなさい、と言われる。逆に言えばここで言う賢い者とはそうやって細かく気を配る者のことだ。自分のことだけではなく自分の周りのことにも目を向け配慮する者のことだ。
私たちは基本的に自分中心で自分のことを優先する生き物だと思う。自分がどうであるか、自分が嬉しいか、自分が満足か、そんな風な見方しかしないときもある。けれども自分が自分が、と自分のことばかりに注目していくと暗闇にはまり込んでいくことが多いように思う。自分の要求ばかりをつきつけていっても、何もかも思い通りに行くわけもなく、結局は周りに対して不満ばかりということになってしまう。
礼拝に来たのに子どもの世話をさせられて、メッセージをゆっくり聞けなかったという愚痴を聞いたことがある。けれどもそのことで他の人がゆっくり話しを聞けたならばそれはすごいことではないかと思う。イエスはそういうことをしなさいと言われているのではないか、それこそイエスの言われていることを実行しているのではないかと思う。細かく気を配ること、誰かのために自分をささげること、誰かを喜ぶことを自分が出来たということを喜ぶこと、それは光の子らしい生き方なのだと思う。
讃美
また酒に酔いしれるのではなく霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かってほめ歌いなさいと言われる。
私たちの本当の喜びは神に繋がることだ。神以外のもので喜びを得ようとしてもきっと得られない。やけ酒飲んでも、やけ食いしても、いっぱい買い物しても、私たちの心の奥にある空しさは埋められない、その空しさは神によってしかイエス・キリストによってしか埋められないようだ。だからこそしっかりと神につながって、イエス・キリストに結ばれて生きなさい、あらゆることをイエス・キリストの名により父である神に感謝しなさい、と言われるのだ。
愛されている
8節で、あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています、とある。
私たちはもうすでに光となっているということだろう。それは主イエス・キリストに結ばれているからだ。そして主に結ばれるということは、神に愛されているということだろう。
私たちは神に愛されるという仕方で主に結ばれているのだ。愛されているから、愛されている者として生きなさい、愛されているから愛する者となりなさいと言われている。
愛する者となることこそが神は喜ばれることだと思う。きっとそれは私たち自身にとっても一番の喜びなのだと思う。