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礼拝メッセージより
異邦人
「もはや異邦人と同じように歩んではなりません。」
その理由は、異邦人が、愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、無知と心のかたくなさのために神の命から遠く離れていて、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知らないからだと言うのだ。
随分と異邦人を馬鹿にしてるというか蔑んでいるというか、酷い言い様だな。と思って17節の他の訳を見ると、
「そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。」(口語訳)
「ですから、私は主にあって語り、厳しく命じます。あなたがたはもはや、異邦人が空しい考えで歩んでいるように歩んではなりません。 」(聖書協会共同訳)
全然違うなあと思う。それにしてもわざわざここに異邦人を入れる必要性はないと思うけれど。
アルテミス
エフェソがどういう町かということをある教会のメッセージに説明があった。
「エペソはローマ帝国内の商業都市であり、文化都市であった。しかし、遊興、ランチキ騒ぎ、性的不道徳ということにおいても有名だった。ある歴史家は、小アジア内で最も好色な都市として、破廉恥な都市としてランク付けしている。そしてエペソは、アルテミス神殿があることで有名だった。アルテミス神殿は、多くの邪悪のセンターであった。大女神アルテミスの信仰は、邪悪な罪、性的倒錯をもたらした。男と女の役割は交換され、そして乱交パーティ、その他の性的倒錯が当たり前にあった。アルテミス自体がセックスの神さまで、その姿は醜く、嫌悪感を抱かせる黒い偶像だった。それはちょうど、牛と狼を掛け合わせたような姿であった。数千の神殿娼婦、宦官、歌い手、踊り子、また祭司、巫女によって仕えられた。アルテミスの偶像と他の神々の偶像は至る所で見られた。色々なサイズがあり、色々な物質で造られていた。偶像造りの職人も多くいたわけで、その職人たちが、このエペソ人への手紙の著者の使徒パウロに抗議した記録が残っている(使徒19章23節〜)。当時ポピュラーであったのが銀の神殿の模型。パウロが、手で造ったものなど神ではない、天と地を造られた神こそがまことの神である、と宣べ伝えているのを聞いて、銀細工人たちは商売の邪魔をする者だとデモを始めた。」(横手聖書やすらぎ教会のメッセージより)
19節に「あらゆるふしだらな行いにふけって」なんて言葉があるけれど、こういう背景があったようだ。
新しい人
かつてはそんな雰囲気の中に生きていて、それが当たり前と思っていたであろう人たちに向けて、キリストを知り、キリストと出会い、キリストを信じる者となったからには、これからは全く新しく生きるようにとこの手紙は勧めているようだ。
22節では、以前のような情欲に迷わされる生き方は滅びに向かっている生き方だと語っている。だから滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、心理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません、というわけだ。
なるほど理屈はあってるな、という感じ?
だから教会に通っている人は清く正しい人ばかりなんでしょう?と言われるのかな。イエスはこんなこと言ってたかなあ。
それはさておき、古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着けるなんて、そんなことできるのかと思う。そんな簡単にできないでしょうと思う。
エフェソが性的不道徳であったというのはアルテミス神殿の影響もあるのかもしれないけれど、人間には生まれ持った欲望があって、その欲望を満たしてもいいというお墨付きをアルテミス神殿が与えていたのではないかという気がしている。持って生まれた欲望を脱ぎ捨てるなんてそうそうできないように思う。
もし自分が独裁者になってなんでもかんでも自分の欲望のままにできるとなったら何をするだろうかなんてことを考えることがある。そうなったとしたら自分の欲望を満たすためにとても口に出来ないようなふしだらなことをしそうだなと思う。
しかしそうすることは周りの人たちの思いを無視することであり、その人たちを傷つけることにもつながっていくだろう。そして欲望は満たされるかもしれないけれど、その後はとても空しくなるんじゃないかという気もする。
小学生の頃、近所の川で同級生と何か忘れたけれど確か何かを探していたときに、綺麗な平べったい石があって、綺麗だなと思いつつ捨てた。しばらくすると同級生がその石を見つけて、「こんな綺麗なのがあった」だったかな、そんなことを言った。それを聞いた瞬間にすごくそれが欲しいというか、そいつに取られるのが悔しいというか、そんな気持ちになって、それは俺の方が先に見つけたんだとか言って、半ば強引に取り上げたことがあった。その時にすごく嬉しかったけれど、家に持ち帰ってからどうしてこんなものをそんなに欲しがったんだろうかなんて思ったことがあった。自分の物にした瞬間は嬉しかったけれど、後でなんとも空しい気持ちになった。
自分のように
自分の欲望を満たすことだけを考えて行動しても、結局は空しいことになるということかなと思う。
キリストは互いに愛し合いなさいと言った。自分のことだけを思うのではなく、相手のことも思いなさいと言った。そしてそんな風にたがいに思い合う、愛し合う、いたわり合う、実はそこにこそ本当の喜びが生まれてくるのだと思う。そしてそれがキリストに結ばれて教えられた真理なのではないかと思う。
真理に基づいた正しく清い生活とは、人間が本来持って生まれた欲望を捨て去るというようなことではなく、互いを大事にし愛し合う生活ということなんだと思う。
イエスは一番大事な掟はなにかと聞かれた時に、
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコによる福音書12:29-31)と語っている。
パウロは隣人愛についてこう書いている。
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ローマの信徒への手紙13:8-10)
自分のように隣人を愛すること、それが私たちがイエス・キリストから聞いている言葉だ。そんな人になることが新しい人を身に着けるということでもあるのだろう。
そしてそうなるためには23節にあるように「心の底から新たにされ」ることが必要なのだろう。新たにされるということは、自分の力で新しくなるのではなく、神の力によって新しくされるということなのではないかと思う。そしてそれは神に思いっ切り愛されるというか、思いっ切り愛されていることを知ることなのではないかなと思う。
自分のように隣人を愛する、そこにこそ最高の喜びがあるのだと思う。