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礼拝メッセージより
洗練
エフェソの信徒への手紙は新約聖書の中でも最も後期に書かれたものの一つだそうで、この手紙の中に、み言葉と説教、賛美と祈りという礼拝の要素をちりばめて、リズムを持った楽曲作品のようにしている、これを朗読していけば、そのまま礼拝を守っている風情となる、と鶴川北教会という教会の説教に書いてあった。
今日の箇所は祈りになっているけれど、この祈りも非常に整えられた祈りとなっているそうだ。そうらしいけれど、ぱっと見、あまりに漠然としていてピンと来ないというのが正直なところだ。
ひざまずいて
ユダヤ人は通常立ったまま、両手を広げ、掌を上に向けて祈るそうだ。ひざまづくというのは、昔の訳はひざをかがめるとなっていたが、いつもよりも思いを込めて必死に祈っているということのようだ。
家族
その祈りの前に15節でなんだかよく分からないことが書いてある。
「15節の章句は、翻訳すると意味不明のような言葉となる。ここを精一杯原文の意図を忠実に訳せば、父(なる神)「パテール(パパ)」によって、キリスト者は「家族(パトリア)」と呼ばれている、つまり「パテール」と「パトリア」の駄洒落を使いたいだけなのだ。韻を踏んでしゃれた言い回しができるだろう、というドヤ顔の章句なのであるが、残念ながら、私たちにはさっぱり分からない。」(鶴川北教会)
内なる人
16-17節がまず一つ目の祈りとなっている。から祈りの内容になっているけれど、「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
なんとなく分かるような気がするし、訳の問題化もしれないけれど、文章が長い。長過ぎ。
内なる人を強めて、キリストを住まわせ、愛にしっかりと立つ者としてくださるように、と三段論法じゃないけれど、順番に三つの段階を踏むような書き方になっているけれど、これはきっと三つの段階じゃなくて一つのことなんじゃないかと思う。
つまり、心の内にキリストを住まわせることで、愛にしっかりと立つ者となることであって、それが内なる人を強めることなんじゃないかと思う。
住む
「住む」と訳されることばには二種類ある。ここでの原語は<カトイケオー>。それは一時的な滞在を意味することばではなくて、「家に住み込むこと、定住すること」を意味することばである。
と、どこかのメッセージに書いてあった。キリストが住むというのはずっと定住するということだそうだ。
信仰
「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」と書いてある。この信仰というのは、疑いを挟まない固い信念をもつということではないだろう。
ヨハネの黙示録3:20に「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」という言葉がある。イエスが私たちの心の戸口まで来てくれている、私たちはその戸を開けるだけでイエスの方から入って来てくれる、信仰とはその戸を開けるようなことだと思う。ただ戸を開けることだけだ。家の中を整える必要なんかない。たとえ家の中がぐちゃぐちゃだとしても、兎に角戸を開けさえすればいいのだ。そうすればイエスが愛を持って入って来てくれる、そしてずっと住んでくれるのだ。
そして私たちが聖書を通してイエスの言葉を聞いているということは、もうすでに心の戸を開いてイエスを招き入れているということだと思う。そうするとここで言う信仰とは、イエスが私たちの心の中にいてくれていること、定住してくれていることを知ること、それを認めるということなんだろうと思う。
愛
そして18-19節に次の祈りがある。
「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」
キリストの愛がいかに大きいかということを言いたいのだろうと思うけれど、愛は物体ではないし、見えないものだし、本当は大きさなんてない。なんて言うと身も蓋もないけれど。
ぎっしり
19節もダジャレ? 「神の満ちあふれる豊かさにあずかり、それによって満たされるように。」と訳されているけれど、もともとこの豊かさという言葉はない。別の訳では、
「また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。 」(口語訳)
「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。 」(聖書協会共同訳)
「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(新改訳)
となっている。
原語では豊かさという言葉はないようだ。神の満ち満ちているものであなたがたも満たされるようにという祈りだ。
イエスが私たちの心の中に住んでくれることで、私たちの内なる人は強めてくれて、愛に根ざす者となるように、この手紙の主はそう祈っている。父なる神がそうしてくれるようにと祈っている。私たちの力でそうするのではなく父なる神がそうしてくれるのだ。きっともうそうしてくれているのだ。
私たちの外見はなにも変わらないかもしれない、外見は清く正しく美しくはなってないかもしれない。相変わらず弱く貧しく醜いままかもしれない。
しかしそんな私たちの心にイエスは来てくれるのだ、いやもう来てくれているのだ。そして神の豊かさや愛で満たしてくれているのだ。
そう思うとなんだかワクワクする。