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礼拝メッセージより
異邦人
ユダヤ人は自分たちが神に選ばれた特別の民と思っていた。そしてユダヤ人は異邦人を嫌っていた。見下していた。もうほとんど憎んでいた。というか自分達と同じ人間という風には思っていなかったようだ。ユダヤ人は異邦人のことを、地獄の火を燃やす薪となるために神に造られたと言っていたそうだ。そして異邦人は殺すのが一番良いことであるとも言ったそうだ。神はすべての国民の中でイスラエルだけを愛されると思っていたそうだ。ユダヤ人である証拠は割礼を受けているということであったので、ユダヤ人は異邦人を割礼のない者と言って見下していたそうだ。
エフェソの教会の人たちの多くは、ユダヤ人から見れば異邦人であり、割礼のない者と呼ばれていた。以前は、神を知らず、神との関係もない、神の言葉を聞くこともない生き方としていた、そして希望もない生き方、神から遠く離れた生き方をしていた、とこの手紙の著者は語る。
しかし、今はキリスト・イエスの血によって近い者となったのだという。以前は、実際ユダヤ人から差別されるような、神とは遠く離れた生き方であったが今は違うのだ、イエスが十字架で死なれたことで、そこで血を流して死なれたことで、神に近くされたのだ、とこの手紙の著者は語っている。
隔ての壁
この手紙の著者は、あなたがた異邦人は、というようにユダヤ人である。この著者もかつては人をユダヤ人と異邦人という分け方をして異邦人を見下していたのだろう。
14節に「隔ての壁」という言葉が出てくる。これはエルサレムの神殿をイメージしているらしい。神殿には一番外側に異邦人の庭があって、次に婦人の庭、イスラエル人の庭、祭司の庭があり、最後に聖所があったそうだ。異邦人は一番外側の異邦人の庭までしか入れなかった。異邦人の庭と婦人の庭との間には塀があって、その塀の所々に「ここを越えて中に入ってくる異邦人は命をもって償わなければならない」と書かれた札が掛けられていたそうだ。異邦人はユダヤ教に改宗したとしてもそこには入れなかったそうだ。
異邦人とユダヤ人の間にはそんな決して越えられない隔ての壁があったようだ。そしてこの手紙ではそれは「敵意という隔ての壁」と書いてあって、ただ区別していたというだけではなく敵意というほどの感情があったということのようだ。
ユダヤ人は、モーセの十戒に代表されるような律法と言われる戒めを一所懸命に守ってきた。その律法からいろんな決まり、規則や戒律ができてきて、かなり命がけで守ってきたようだ。けれどもその規則を守ることで、規則を守ることができる自分を優れたものと思い、規則を守れなかったり守らなかったりする者を裁いていたようだ。本来その律法や規則は自分が神との関係を持つために守るものであったはずなのに、神に近づくための規則ではなく、ただ破らないための規則と、そして守らない者を裁くための規則となっていたようだ。
しかしそんな規則と戒律ずくめの律法をキリストは廃棄された、と言う。
でもイエスは「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」(マタイによる福音書5:17)と言ってるけど、、、。
十字架
キリストは十字架によって、十字架の死によって、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた、両者を神と和解させることで一つとしたと言う。
神から遠く離れていた異邦人を神の近くにいさせることによって、そして神に近いと思っていたユダヤ人に対しては、自分たちを縛り付けて敵意を起こさせていた律法を廃棄することで、両者を一つのものとしたというのだ。
神の家族
キリストが平和の福音を告げ知らせてくれたので、異邦人とユダヤ人両方の者が一つの霊に結ばれて、あなたがたはもう外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられている、そしてそのかなめ石はキリスト・イエス自身であり、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となるという。
ちなみにかなめ石というのは石を組んでアーチを作る時のてっぺんの石のことだそうだ。教会はイエス・キリストをかなめ石としてアーチのように組み合わされているということなのかな。アーチだとすると一つが欠けても崩れてしまう。
そして、キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊に働きによって神の住まいとなるというのだ。私たち一人一人が神の住まいとなると言っているようだ。
かつてユダヤ人だ異邦人だ、と言っていた者たち、互いに敵意を持っていた者たちを含めて神は神の住まいとして建てるというのだ。霊の働きによって、つまり神の働きによって、私たちも神の住まいとして建物のなかに組み合わされていくというのだ。
しかし敵意という隔ての壁をイエス・キリストが取り壊したと言っている。イエス・キリストが十字架によって敵意を滅ぼされたと言っている。私たち自身が隔ての壁を壊し敵意を滅ぼすことで一つになれるのではなく、イエス・キリストが隔ての壁を壊して的を滅ぼしてくれたと言うのだ。
ずっと昔、キリスト新聞にこんなことが載っていた。
ある田舎町で古い職人の家の長男が洗礼を受けることになった。ところが間近になって受けられないと言ってきた。そこの教会の牧師は、父の許しが得られなかったのだろうと思った。ところが彼は、父はむしろ自分の受洗を喜んでさえくれているが、ただ自分が自信を失ったのだと言った。洗礼を受けても立派なキリスト者の生活を全うできるかどうか自信が持てないと言った。
牧師は、少々声を荒げて言った。自信とは何か、洗礼を受けるのは、自分を信じて生きるということではない。むしろ反対ではないか。自分を信じて生きる愚かさ、罪深さを捨てて、ひたすら神の恵みを信じ、より頼むことではないか。救いの確かさ、これからの歩みの確かさ、それはすべて神から来る。私が説教で説き続けていることは、そのことではなかったか。それが分からないなら洗礼を延期するよりほかない。
キリストを信じているからといって、教会員になっているからといって、敵意もなくなり人も憎むこともなくなったという人はいないだろう。私たちの中には敵意と憎悪が渦巻いている。しかしキリストが敵意という隔ての壁を取り壊してくれると言うのだ。
私たちは自分の力ではどうにもならない、どうしようもない強い力に引きずり回されているようだ。私たちは自分の罪深さと無力さを嘆くしかないように思う。
しかし私たちにはイエス・キリストがいる。私たちの中にはイエスがいてくれている。「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」とある。
私たちはきっともう神の住まいとされている。私たちの心の中にイエスがいてくれているからだ。でも改めて神の住まいなんて言われると、とてもおこがましい気がするし、とてもそんな者ではありませんと言いたくなる。しかしそんな私たちを神の住まいとされているのだ。霊の働きによって、つまり私たちの努力によってではなく神の力によって神の住まいとされているのだ。この私たちの中にイエスはいてくれているのだ。
最近礼拝の人数が減ったといっては落ち込んでいた。自分の中にいてくれているイエスのことを忘れていた。自分の外の状況にばかり目を奪われて、自分の中のイエスのことをすっかり忘れていたことに気づかされた。
こんな自分を神の住まいとされている、自分の中にイエスがいてくれている、ホントに嬉しいことだ。