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礼拝メッセージより
分かる?
なんだかよく分からん手紙だな。難しい言葉というか、分かるような分からないような言葉がいっぱいある。最初読んだ時には何を言ってるのかさっぱり分からなかった。
霊的な祝福
3節で、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」とある。霊的な祝福ってなんだ?霊的な祝福で満たしてくださいましたと過去形になっているということは、もうこの霊的な祝福で満たしてくれているということになる。本当か?って思う。
また4節では「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」なんて書いてある。天地創造の前から私たちを選んだなんて書いてある。しかも聖なる者、汚れのない物にしようとして選んだそうだ。
また5節には「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」とあって、私たちを神の子にしようと決めたというのだ。
その後も、「御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。」とか「秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。」とか、「約束されたものの相続者とされました。」とか、「約束された聖霊で証印をおされたのです。」なんてことも言われている。みんな過去形になっているようで、将来の話しではなくて、もうすでにそうなっていると言っている。
現実
霊的な祝福で満たしてくれたとか、聖なる者、汚れのない者として選んだとか、神の子にしようと定めたとか、さらには御子の血によって贖われ罪を赦されたとか言われている。これが私たちに向けても語られている言葉なんだろうかと思う。そんなこと言われても現実の私たちの姿はどうなのかと思う。霊的な祝福はどこにあるのかと思うし、聖なる者とか汚れた者にしようとして選んだなんて言われても、選ぶ人間違ったんじゃないのかとしか思えない。
御子の血によって贖われ罪を赦されたなんて言われても、勝手に罪人だと言っておいて勝手に贖ったからって言われているようで、なんじゃそりゃと思う。
見えないもの
この頃よく思うのは、この世界は見える世界だけではなくて見えない世界があるんじゃないか、というか、見える世界の価値観だけじゃなくて、見えない世界の価値観とが重なり合っているような気がしている。
地位も名誉も財産も持って、家族も仲良く、健康であることが祝福された人生であるというのが、目に見える価値観だと思うけれど、実はこの世にはそれだけではなくて霊的な祝福、それは神に愛されている、大切に思われているというようなことかなとおもうけれど、そんな価値観もあるということをここで言っているような気がしている。
この手紙には、神が天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくれたと書いているけれど、現実には当時の教会もきっといろんな脅威にさらされていたり、いろんな問題を抱えていたようだ。見える所では大変なことがいっぱいだったと思う。けれど、そんな教会を神は霊的な祝福で満たしていると言っている。
私たちの教会も礼拝の人数も減るばかりで、財政もいつも逼迫している。そんな現実を突きつけられると落ち込むばかりだ。先週は4人の礼拝だった。礼拝の人数に囚われないでいようといつも思っていて、日曜日はそうでもなかったけれど、次の日から、こんな牧師だからダメなんだろうなと沈んでいた。逆に礼拝の人数が増えると元気になって有頂天になってたりして、結局やっぱりそんな目に見えるものに囚われている。全然気にしないなんて無理だなと思う。
私たち一人一人も見える所では祝福されたと思えるようなことはそれほどないかもしれない。むしろどうしてこんなに苦しい大変なことばかりなのかと思うようなことが多いのではないかと思う。怪我したり病気になったり、災難を経験したり、災害に遭うこともある。いろんな失敗をしたり挫折したりすることもある。あるいは家の中の器具が故障したりなんてことが重なるだけでも落ち込んでしまう。
でもそんな私たちに向かってこの手紙は、わたしたちをキリストにおいて天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいましたと告げるのだ。神が私たちを愛して、聖なる者と汚れのない者にしようとキリストにおいて選んだ、神の子にしようと定めたと言うのだ。これが9節の「秘められた計画」かなと思う。
見えない霊的な祝福、見えない神の計画があるんだとこの手紙は告げている。私たちの教会に対する霊的な祝福と神の計画、また私たち一人一人に対する霊的な祝福と神の計画がある、そのことを知っていてほしい、見えないけれど確実にある、そのことを信じてほしい、この手紙の主はそう訴えているようだ。
霊的な祝福と神の計画、そして神の御手、神の愛、そんな見えないけれど大切なもの、見えないけれど私たちを支えてくれているものをしっかりと見つめていきたいと思う。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二4章18節)
見えるものは確かにそこにあるし、見える現実はなかなか変わらない。苦しい現実もなかなか変わらないかもしれない。けれど見えるものだけに目を奪われるのではなく、見えないものがあるということを忘れないでいたいと思う。
希望とか喜びとかは、見えないものによって与えられるものではないかと思う。