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礼拝メッセージより
科学万能主義
科学万能主義って言葉がある。科学主義という言い方もするそうだけれど、あらゆることが科学で解明できるとか、科学で解明できることこそが真理であるというような考え方だそうだ。科学で解明できないものは存在しないというようなことになるのかなと思う。
科学で解明できないものの代表が神かなと思う。昔は自然現象は神が起こすことだという考えがあったみたいで、雨もどうして降るのかよく分かっていなかったようだ。空にも水溜まりがあって、そこから落ちてくるのが雨だと考えられていたようで、旧約聖書の創世記にもそんなことがかいてある。雷も神鳴りが語源だそうだけれど、よく分からない自然現象は神の仕業だと考えられていたようだ。
科学が発達して、かつては神の仕業と思われていたことの多くが実はそうじゃなくて自然現象だと分かってきた訳だけれど、そうすると実は神なんていなくて、科学で何でも説明できるんじゃないかという気持ちになってくるのも分かる気もする。
そうなると神を信じるなんてのは非科学的なことのようにも感じてしまっても不思議じゃない気もする。と他人事のように言ってるけれど、僕もそんな気持ちで生きてきた。
子どもの頃は祭りや初詣などでは家族で近くの神社に行っていた。そこで祈れと言われたことがあって、でも何を祈ればいいのかよく分からなくて、勉強ができるように位しか思いつかなくて、しかもそれを誰に向ければいいのかもわからず、ただ自分の願望を思い浮かべて手を合わせているだけだったという記憶がある。神棚も仏壇もある家に育ったけれど、僕自身は祈るということは経験してこなかったような気がしている。
祈り
だからなのかな、ひたすら祈りなさいなんて言われると困ってしまう。そもそも祈りって何なのと思ってしまう。その祈りがどういう風に神に届いて、それを神がどういう風に聞いてくれて、それに対して神がどう対処してくれるのか、そんなことを考えてしまう。誰かのために自分が祈る事に意味はあるのかと考えてしまう。
ちょっと話しは違うけれど、神はどこにいるのかとか、そもそも神とは何なのかなんてことをよく考える。
少し前にそんなことを考えつつネットで色々見ているときに、「神とは何か、哲学としてのキリスト教」という本があって、試し読みを読むと面白そうだし、これを読めば分かるかなと思って注文した。少しでも分かれば良かったのだけれど、形而上学なんていう話しから始まって哲学の素養の無い僕には難しすぎてほとんど理解できないでいる。
何の疑いもなく素直に神を信じたり、何の抵抗もなく自然に祈れたりするような人がいるけれど、羨ましく思うこともある。
無力
祈りとはなんだろうと思って祈りについての本も少しは読んだけれど、なかなかしっくりこない。神との会話であるとか、霊の呼吸であるだったかな、なんとなく分かるような気はするけれど、どこかすっきりしない小難しいことを書いてある本が多い。
それでも今回また少し読み返すとこんなことが書いてあった。
「第一、無力さということ これは疑いもなく祈る心の第一の、また確実なしるしです。私の知るかぎりでは、祈りは力のない者のためにのみ、さだめられたのであります。それは無力者の最後の頼みであります。まことに最後の最後の出口であります。私どもはなんでもやって見た後に、祈りに頼って行くのです。」
「ですから、祈りは、毎日私共が無力であることをどんな具合に感じているかを神に告げることだけなのです。私共は祈りの霊である神のみ霊が、私共に無力さを新しく強調したもうたびごとに祈るようにうごかされるのです。そして、私共は生まれながらにして、信ずること、愛すること、望むこと、奉仕すること、犠牲を払うこと、苦しむこと、聖書を読むこと、祈ること、罪の欲望とたたかうことなどにどんなに力が弱いかを知るようになるのです。」
「しいて信ずるように努力する必要もありません。あるいは疑いを、自分の心から追い出すようにする必要もありません。どちらも同じように無駄なことです。どんなに困難なことであろうとも、イエスのみ前に何もかも持ってゆくことができるということが、私にわかりはじめるのです。そこで自分の疑いや弱い信仰に怖れる必要はなくなり、ただ自分の信仰がどんなに弱いかを、イエスに告げさえすればよいのです。イエスに私の心の中へ入っていただくのです。そこでイエスは、私の心の求めを満たしてくださるでしょう。」
(「祈り」O.ハレスビー著 東方信吉 岸千年訳 聖文舎)
やっぱちょっと小難しいなと思う。
正直
例によってネット見ていると、「“祈り”に意味はあるのか」という本を書いたフィリップ・ヤンシーという人のインタビューがあった。その本を読んでみたくなったけれどもう絶版みたい。中古はあったけれど結構高くてどうしたもんかと思っている。
そのインタビューのなかで、こんなことを言っていた。
「何が私たちを「美しい祈り」に駆り立てているのでしょうか?
たとえばバーに行くと、仕事や家庭、社会に対する文句が飛び交っています。みんながきちんとした格好をして笑顔であいさつをするような教会では、聞かれないようなことばかりです。聖書の祈りは、バーでの会話に似ています。「なぜ私を殺そうとするのですか?」とか。詩篇などを見るとわかるのですが。
私たちは神に「好かれたい」と思ってしまうんでしょうね。だからいつでも「いい人」に見られたい。けれどもイエスはそんな人々を批判しています。」
執筆の過程で気づかされたことは?という質問には、
「書きながら、自分の罪意識や信仰が不十分なのではないかという思いと闘ってきました。けれども、聖書にある六百五十の祈りすべてをひとつひとつ検証すると、多くの祈り手が神に対して当惑した思いをぶつけていることがわかりました。詩篇などまさにそうですね。自分が感じたことをそのまま語りなさい、と励まされているように感じました。特に「本音と建前」が強い日本人は、わりと簡単に神に対しても隠しごとをしてしまうかもしれませんが、そんな必要はないのです。祈りは自分のうちに何が起こっているのか神に伝える手段ですから。今こうやって話しているように。
また、祈りは個人的な行為で、ひとりひとりがちがった物語を持っています。自分のスタイルに固執せずアフリカ系教会、正教会、カトリックなどからも学ぶべきことがたくさんあります。アメリカ人も、祈りは丁寧で美しく聞こえなければならないと思いがちですが、聖書の祈りは違いますね。みんな、とても正直に祈っています。イエスもこう言っているでしょう。「正直に、簡潔に、あきらめないで祈りなさい!」と。これがポイントです。
神は祈りを宿題のように命じているわけではないということにも教えられました。「ちゃんとやっていい成績をとりなさい」と言われているわけではないのに、私自身はずっと祈りとはそういうものだととらえていたのです。時間がないから十分にできないというようなものではなく、祈りは神と話せる「特権」だということ。祈れないからといって罪の意識にとらわれることも、自分はだめなんだと思う必要もない。これは読者にも伝えたかったことです。」
そしてインタビューの最後の所で、
「神はとにかく私たちから聞きたいと願っているのです。私たちの生活に巻き込んでほしい、と。そのためにも、祈りを仕事や訓練だととらえてはいけません。むしろ、神との友情、会話、ゆるされた特権だと喜ぶことです。歯を磨いている間にだって祈れるのですから。」
結局小難しい本と同じことを言っているなと思った。
疑いも不信仰も全部ひっくるめて、自分の正直な思いをイエスのもとへ持っていく、そして自分が無力であることをイエスに告げる、それが祈りみたいだ。美しい祈りなんてする必要ないし、正直な思いをイエスに告げればいいのだろう。この祈りは聞かれるのだろうかなんてことも心配しなくていいのかもしれない。そんな心配も含めて、自分の正直な思いをそのままイエスに告げること、それが祈りなのだと教えられたように思う。