【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
大事
昔子供が小さい頃、小学校で子育てについての話を聞いたことがあった。その中で家出をして帰ってきた子に対して、何してたの、と叱るとその子はまた家出をする。寒くなかったか、腹減ってないかと言うとその子はもう家出をしなくなる、なんてことを聞いた覚えがある。
何か問題が起きた時に、何を言えば良いのか、どんな顔をすればいいのか、いわばそんなテクニックを知りたいと気持ちが強くて、その話しの中で覚えているのは家出から帰った子どもには、腹は減ってないかと言えば良いんだということだけだった。本当に大事なのは、どんな科白を言うのかということよりも、どんな思いで接するのか、そもそも子どもとは何なのか、子育てとはどういうものなのか、親とは何なのか、そんなことなんだろうと思うけれど、そんな大事な話しはちっとも覚えていない。
命令?
聖書を読むときにも大事なことを抜きにした読み方をしてしまいがちだ。
今日の箇所には、5節で「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を棄て去りなさい。」とか、8節で「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」、9-10節では「互いにうそをついてはなりません。奮い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」とか、12節で「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」、13節で「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」、14節では「これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。」、15節では「いつも感謝していなさい」、16節では「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」、17節では「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」なんて書かれている。
こう見るとホント命令ばっかりで、しかもとてもできそうにもないことばかりで困ってしまう。
こんな風にあれしなさい、これしなさい、ということばかりを見ていると正直うんざりする。そんなの私にはできません。やっぱり私は信仰が足りません、そんな立派な人間にはなれませんという結論に落ち着いてしまう。そうすると聖書を読むなんてのはほとんど苦痛でしかない。
ラブレター
聖書のことを神さまからのラブレターだ、なんてことをいう人がいるけれど、ずっとその言葉を臭いせりふだと思っていた。確かに愛という言葉はよく出てくるがラブレターだなんて、と思っていた。でも最近はラブレターかもしれないなと思うようになってきた。
ラブレターをもらうと誰もがわくわくしながら一生懸命に読むと思う。ひとこと一言味わいながら、そしてそこに書かれた言葉以上に相手はどう思っているかを知ろうとして目を皿にして読む。
聖書も実は神の私たちに対する思いがそこに盛り込まれているように思うようになってきた。やっぱりラブレターといってもいいんではないかと思うようになった。
教会に行き始めた頃は教科書を読むような思いで聖書を読んでいた。聖書の中に私たちのなすべきこと、あるべき姿、語るべき言葉が書いてあって、それを少しずつ覚えていかねばならない、そのために聖書を読まねばならないという気持ちだった。だからいつまで経っても聖書の言葉も覚えられない、あるべき姿にも近づけない自分は劣等生なのだ、という気持ちがあった。
だ・か・ら
そんな気持ちだからか聖書を読んでも、これこれしなさいというような言葉ばかりに目がいってしまう。
例えば12節で「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」という所でも、何処を一生懸命読むかというと、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と言う方ばかり目を奪われてしまう。でもそんなの身につけなさいと言われたからといって、では着けときましょうなんて言えないし、僕のような人間にはほとんど不可能だろうと思ってしまう。
でもここでは、身につけなさいよりも先に、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」と言っている。私たちが神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている、だから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさいというのだ。
神学部の教授の、「だ・か・ら」ということばを思い出した。あなたは神に選ばれている、聖なる者とされている、愛されている、だ・か・ら、これこれしなさい、と言うのだ。この順番は決して逆にはならない。この命令を守れれば、すぐれた人間になれば、揺るぎない信仰を持てば、そうすれば神に選ばれ聖なる者とされ愛されるのではない。
愛されるような要素は何もない、むしろ罪と汚れに満ちているこの私が、もうすでに神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている、だ・か・ら、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさいというのだ。もうすでに神に愛されている、だから愛されている者として生きなさいというのだ。
なぜ神がわたしを選んだのか、なぜ聖なる者とされたのか、なぜ愛されたのか、まるで分からない。なぜ私が選ばれこうしてこの教会に集められているのか、その理由を私たちは知らない。
ただ神の側の理由によって私を選び聖なる者とし愛されているのだろう。こちらには理由はないのに、そんなことされるような人間ではないのに、そうされているのだ。邪悪な私たちが神に選ばれ愛されている、また赦されている、だ・か・ら互いに忍び合い、責めるべき事があっても赦し合いなさいと言われるのだ。
この私が、こんな私が神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている、そして心も体もすべてをキリストのものとされている、そのことを心から喜び、感謝する、きっとそこが私たちの原点なのだ。そんな喜びと感謝があるから私たちは愛し合い赦し合うこともできるのだち思う。
でも、怒りや憤りや悪意やそしりとかを捨てなさいと言われても出来ないよと思ってしまう。憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、それに愛を身に着けなさいなんて言われても、無理ですって即答してしまいそうだ。
そこだけ読むと無理ですと思ってしまうけれど、けれど、神に愛されているのだから、だ・か・らそうしなさいと言われると、そう簡単に無理だとは言えないような気がしてきて、ならばこの言葉の前でちょっと佇んでいようかという気になっている。
あなあは神に愛されているのだから、愛されている者として生きなさい、そしてあなたも愛する者となりなさい、イエス・キリストもそんなこと言っていたなと思う。そんなイエス・キリストの言葉をもっともっと聞いていきたいなと思う。