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礼拝メッセージより
「ただキリストによって」 2022年6月12日
聖書:コロサイの信徒への手紙 1章24節-2章5節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)
分からない
今回この聖書を読んだとき、何を言っているのか、何が言いたのか全然わからなかった。雲を掴むような感じだった。
ここから礼拝のメッセージをしないといけないという気持ちがあって、そのために聖書を読むというのが習慣になっていて、何を話せばいいのかさっぱり分からないと思った。注解書見たりネットで検索したりしていろいろ見ながら、何回か聖書を読んでいると少しは分かるというか、少しは心に入ってくるような気になっている。
そんなことしながら、そもそも読み方が間違ってるんじゃないかという気がした。分かってないのに喋ろうとあせっているというか、料理を噛まずに食べて全然栄養にならないと焦っている感じというか。
兎に角だいぶ変な読み方しているような気がしてる。偉い人が書いたものはやっぱりよく分からないなとは思うけれど。
コロサイ
コロサイはアジア州の州都エフェソから東に170kmほどはなれたところにあった。近くにラオディキアとヒエラポリスという都市があった。近くに大きな牧草地があって、羊の大群が飼われていて、羊毛の生産地であり、染色業も盛んであったそうだ。
使徒言行録言行録19章によると、パウロは第3回伝道旅行でエフェソに2年間いて、19章10節では、「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」と書かれている。
今日読んだ手紙の宛先であるコロサイの教会のことは使徒言行録には出てこない。どうやらコロサイ教会はパウロが創立した教会ではなく、パウロは訪問したこともなかったらしい。コロサイの信徒への手紙1章7節にエパフラスという人の名前が出てくるが、この人はパウロがエフェソのいるときにパウロから教えを受けてコロサイ教会を創立したのではないかとも考えられているようだ。
そのエパフラスがどうやら軟禁されているローマにいるパウロを訪ねてきて、コロサイ教会の様子を知らせたようだ。1章の前半部分にそのことについて書かれているが、パウロはコロサイの教会の人たちが信仰と愛を持っているという報告を聞いてとても喜んでいる。しかし異端的な考えが入り込みそうになっているということを聞いて、そのためにこの手紙を書いた、ということになっているようだ。
秘められた計画
26節で、「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。」と言われている。
世の初めからあったけれど隠されていた秘められた計画が、今や、明らかにされたという。世の初めからなんてなんだか大げさな言い方だなと言う気もするけれど、その秘められた計画が今明らかにされたという。そして27節にあるように、その秘められた計画とは、あなながたのうちにおられるキリストであり、栄光の希望だという。キリストとは栄光の希望だという。
キリストとは世の初めから隠されていた秘められた計画であり、栄光の希望だと言っている。
1章3-5節のところにも希望という言葉が出てくる。
「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。」
ネットに出ていたけれど、ここには信仰と希望と愛という言葉がある。コリントの信徒への手紙一13:13の「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでの残る。その中で最も大いなる者は、愛である。」というのとちょっと似ている。
2章2節にも「神に秘められた計画であるキリスト」とあるように、キリストこそが神の秘められた計画であり、キリストこそが栄光の希望だと言っている。そして3節には「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と言っている。私たちの知るべきことは全てキリストの内にあるということ、キリストを知ることでもう充分だということだ。
4節で「わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです」とあるけれど、巧みな議論とは、キリストだけではだめだ、キリストを知ることだけではまだ充分ではない、キリストを信じるだけでは救われないというような主張をする人たちがいたようで、そんな人たちにだまされないようにするためにこの手紙が書かれたということのようだ。
キリスト
そしてそのキリストとはどういう方であったかということは、1章9節以下にところに書かれている。新共同訳では、「御子キリストによる創造と和解」なんて小見出しが付いていて、最初はそれ見ただけで訳分からんと思っていたけれど、よく見るとすごいことが書いてあるなあと思った。
「1:13 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。
1:14 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」
父なる神は私たちを闇の力から救い出して、愛する御子すなわちキリストの支配下に移してくれたというのだ。そして私たちはキリストによって罪の赦しを得ているというのだ。ただキリストによって私たちはもう赦されているというのだ。神がそうしてくれたというのだ。
そして「1:22 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」とある。
神はイエス・キリストが十字架で死んだことで、私たちと和解し、私たちを聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくれたという。
私たちが何かをしたから、何か立派なことをしたから、いいことをいっぱいしたから赦されるというのではないということだ。あるいは私たちが自分自身を打ちたたいて、鍛え上げて立派な人間になることによってきずのない者と認められるというのでもない。
ただキリストによって赦されている、ただキリストの死によって私たちをとがめるところのない者としてくれたと言うのだ。
だから私たちは、お前はただキリストによって赦されている、ただキリストによってきずのない者とされている、その神声を聞き、そのことを受け止めるだけだ、信じるだけだ。
そしてそうしてくれたのは神が、そしてイエス・キリストが私たちを愛してくれているからだ。心底大事に思ってくれているからだ。だからなのだ。
有り難く嬉しいことだ。