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礼拝メッセージより
ローマへ
パウロは第3回伝道旅行の最中にエルサレムへ向かうと決意し、周りの反対を振り切ってエルサレムへ行く。しかしエルサレムにはパウロに反感を持つユダヤ人たちが大勢いたようで、彼らによって裁判にかけられたり、当時統治していたローマ帝国側に連れて行かれたりする。パウロ自身がローマの市民権を持っているということで、最後はローマ皇帝に直訴するということになりローマ兵によってローマまで連れて行かれることになる。途中船が嵐に遭い難破するがどうにか助かりローマに到着する。このあたりの経過は使徒言行録の最後の方に詳しく書かれている。
ローマでは「番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことが許された」と28章16節に書いてあり、それに続くのが今日の聖書の箇所となり、ここが使徒言行録の最後になる。
ローマでもパウロはまずユダヤ人たちを招いてイエスの話しをする。やはりここでもパウロの話を信じる者と信じない者がいたと書かれている。パウロの宣教は成果が上がらないことも多かったようだ。
終演
使徒言行録はここで終わる。皇帝に訴えたパウロがその後どうなったのかは書かれていない。最後の31節では、パウロがイエス・キリストを自由に教え続けたと書かれているように、使徒言行録はイエス・キリストの福音がどのように伝えられたかが書かれていて、この続きは後の時代の教会へと引き継がれていくということで敢えて唐突に使徒言行録を終わらせたんだろう、という人もいる。
しかしそうじゃないだろうという人もいた。パウロがローマにやってきた時の皇帝はキリスト教を迫害したネロという皇帝だったそうだ。ネロはローマで起こった大火事がキリスト教徒の放火が原因だと言って教会を迫害した人物で、パウロもその時に処刑されたという伝説もあるそうだ。
30節には、「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで」と書かれていて、ということはその家に住んだのが二年間だと知っている、ということは二年後にどうなったのかということも知っているということだろう。
二年後なにがあったのか確実なことは分からない。後々ルカがこの使徒言行録をまとめた時代も教会は迫害されていて、ローマ帝国を刺激しないためにパウロの最期を敢えて書かなかったのではないかという人もいる。使徒言行録全体的に、ローマ帝国の役人たちがパウロに対して結構好意的であったと書かれているみたいだし、やっぱりローマ側を刺激しないためにパウロの最期を書かなかったんじゃないかという気がする。パウロが各地でいろんな艱難に遭っているように、実際にはキリスト教徒を嫌っている皇帝のお膝元では一層大変な目にあったと考える方が自然なことじゃないかと思う。
赦されたから
しかしパウロはどうしてそんなに大変な目に遭いながらもイエス・キリストを伝えていったのだろうか。パウロ自身手紙の中でいかに大変な目に遭ってきたかと書いてあったりする。それなのに何度も大きな旅をしてまで伝えていった原動力はなんなのだろうか、と常々思っている。
その原動力はイエス・キリストに赦されたからではないかという気がしている。ユダヤ人たちはイエスが自分達が何よりも大事にしていた、旧約聖書に書かれているような律法をないがしろにしていると言って十字架で処刑してしまった。厳格なユダヤ教の一派であるファリサイ派に属していたパウロは、最初はこのイエスを救い主であると信じていたキリスト教徒たちを見つけ出し処刑していた。
しかし彼はキリスト教徒たちを迫害するためにダマスコへ向かう途中にイエスと出会うことになった。それは恐らく心の中にキリストの光が射し込んでくるというような出会いだったのだと思う。そこからパウロはイエスを信じる者を迫害する者から、イエスを伝える者へと大転換することになった。
キリスト教側からすれば、それは素晴らしい出来事と言ってもいいようなことだし、パウロ自身にとってもすばらしい出来事でもあったとは思うけれど、でもパウロにとっては素晴らしいだけではなく、追いきれないような負い目を背負うことでもあったはずだ。イエスをキリストだ、救い主だと信じるようになるということは、かつてイエスを信じている者を見つけ出して処刑してきたことを否定することでもある。それがとんでもない間違いであったことを認めることでもある。自分の方が間違っていた、キリスト教徒の方が正しかった、そんなことを認めるということはとても辛く苦しいことでもある。しかも自分はその正しい人たちを迫害し処刑していたわけだ。それまでの人生を全否定するような気持ちでもあったのだろうと思う。
そんなパウロが今度は逆にイエスをキリストであると伝え始めたというのは、間違ったことをしていたことに対する罪滅ぼしのような気持ちもあったのではないかと思う。間違ったことをしてきたけれど、それ以上に正しいことをすることで挽回しようというような気持ちもあったんじゃないかと思う。
でもそれ以上に、それまでの間違いを赦されたという思いがあったからこそ、そしてその喜びがあったからこそ、パウロは命をかけてイエスを伝えていったのではないかと思う。パウロにとってイエスは自分の間違い、罪、そして弱さ、そんなものを全部背負ってくれている、自分のすべてを背負ってくれて十字架につけられているという思いがあったのではないかと思う。そして、しかしお前を赦す、お前の全てを赦す、私はそのお前が大切だ、そんなお前を愛している、そういうイエスの声を心の中で聞いたのだと思う。そしてその喜びがパウロを突き動かしていたのではないかと思う。
使徒言行録の最後31節には、「全く何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」となっている。
パウロの最期を書かなかったのは、当時教会がローマ帝国に迫害されていることからローマを刺激しないためということと共に、パウロの最期を書くことでパウロに注目が集まることを恐れたから、パウロではなくイエス・キリストこそ見つめてもらうためだったのかもしれないという気がしてきた。
パウロを通して、イエス・キリストを見つめて欲しい、イエス・キリストのことを知って欲しい、そんな思いから最後の最後に、主イエス・キリストについて教え続けたと書いて、これを読む人たちにはその教えを聞いて欲しいと語っているような気がしてきた。
ペンテコステ
今日はペンテコステにあたる。使徒言行録の最初の方にその時のことが書かれている。聖霊に吹かれてイエス・キリストの弟子たちがいろんな国の言葉を語り出したなんて書かれている。そんなことが本当にあったのか、俄には信じがたいようなことだ。
聖霊とは、よく分からないけれど、神の霊というか神の力というようなものだと思う。新約聖書の書かれているギリシャ語だと聖霊とはプネウマとかプニューマというような言葉で、これは息とか風とかいう言葉と同じ言葉だそうだ。そうすると聖霊とは神の息、神の風というかんじかなと思う。
パウロもこの神の息を吹きかけられて、神の風に吹かれてイエス・キリストを伝えていった。そしてその同じ神の息を吹きかけられている、神の風が私たちにも吹いている、使徒言行録はそのことを伝えているのだと思う。
そして私たちもパウロが見つめたイエス・キリストを見つめていきたい、そしてパウロが聞いたイエス・キリストの言葉を聞いていきたいと思う。