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礼拝メッセージより
パウロ
パウロはエルサレムにやってきて、エルサレム教会の人たちの勧めに従って清めの式を受けるために神殿に入った。しかしアジア州から来たユダヤ人たちが境内でパウロを見つけて、律法を無視している男が神殿という聖なる場所を怪我してしまったと言って騒動を起こし、パウロを境内から引き摺り出して殺そうとした。
そんな騒動を知った千人隊長はパウロを捕らえた。当時ユダヤ地方はローマ帝国に支配されていて、ローマの守備大隊が治安を守っていた。千人隊長は騒動の原因を知ろうとして、最高法院を招集したりするが、ユダヤ人たちがパウロの命を狙っていることを知り、またパウロがローマの市民権を持っていることを知り、パウロを総督であるフェリクスのいるカイサリアへ送り届ける。総督はローマ帝国の役人でこの地方での最高責任者だ。
5日後に大祭司アナニアと長老数名と弁護士テルティロがカイサリアへやってきて、総督にパウロを訴え出た。パウロとテルティロ両者の話を聞いたフェリクスは、エルサレムにいる千人隊長のリシアが来るのを待って判決を下すと言ってパウロを監禁した。監禁と言っても友人たちが世話ができるような監禁だったと書いてある。そうしながらフェリクスは妻のドルシラと一緒にパウロの話を聞きにきたとあるが、それはパウロから金をもらおうとする下心もあったと書いてある。
パウロは結局そのまま2年監禁されたみたいだけれど、2年後総督がフェリクスからフェストゥスに替わった。フェストゥスはすぐにエルサレムへ行く。ユダヤ教の主だった人たちへの挨拶ということだろうか。するとユダヤ人たちはパウロを訴えるからエルサレムへ送り返してくれと頼む。フェストゥスはお前たちがカイサリアへ来て告発しろと言い、その後カイサリアで裁判が開かれる。その中でパウロはローマの皇帝に上訴すると言って、ならば皇帝のもとに出頭するようにということになる。
数日後にアグリッパ王と妹のベルニケがフェストゥスに挨拶に来る。総督が新しくなったので就任祝いの挨拶に来たという感じなのかな。王と言ってもローマ帝国から承認された王ということだったみたいで、王ということはユダヤ人側の人間ということになるんだろうけれど、持ちつ持たれつの関係だったのかなと思う。
その時にパウロの話が出て、パウロはアグリッパの前で弁明することになる。アグリッパとベルニケが盛装して、千人隊長や町のおもだった人たちもいたとあるけれど、就任式のようなものなんだろうか。使徒言行録26章がその時のパウロの話しとなる。
弁明
パウロはこの時にもダマスコへ向かう途上でイエスと出会った、という話しをしている。使徒言行録の中には三度その話しが出てくる。ご丁寧に三度とも詳しく書かれている。
その後は「アグリッパ王に信仰を勧める」という小見出しがついている。けれどこれは信仰を勧めた話しなのかな、と思う。「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」(27節)なんて言っているけれど、ちょっと嫌味な言い方だよな。
パウロはエルサレムへ来てから、いろんな所でいろんな人に弁明したことが書かれているけれど、それを聞いた人たちがイエスを信じるようになったということはどこにも書かれていないと思う。そんなにうまくは行かないのが現状なのかな。
あかし
パウロがどこでもこうやって話しをしたように、私たちも証しをしましょう、ということをよく聞く。でもなかなかできない。
私たちはクリスチャンであることとか、教会に来ていることなどを口にしずらいという気持ちを持っているのではないか。今度の日曜日に遊びに行かないか、なんて誘われても、日曜日の午前中は礼拝に行くからと言うことをためらうという話しをよく聞く。あるいはそう言うには勇気がいるという話しも聞く。中には私は言っていますと威張って話す人も見かける。
いろんな人がいるだろうが、教会に行くことを普通には話しづらいというのはどうしてなんだろうか。僕もそうだった。なんとなく教会に行くなんて言うと相手からなんて言われるだろうか、なんて変な心配もあった。今でも牧師であるということを躊躇うこともある。教会関係の人に言うのはなんともないけど、教会に関係のない一般の人からお仕事は?なんて聞かれると牧師ですというのにはちょっと勇気がいる。最近はこの人は牧師ですって言ってくれたりもするけれど。ステージの上で紹介されるときはどよめきが起きることも多い。
いろいろ聞かれるのが面倒だという気持ちもあるけれど、本当は牧師の癖にと言われるのが恐いからだと思う。牧師の癖にそんなことするんだ、牧師の癖にこんなことも知らないの、牧師のくせにだらしない、、、。そんな牧師の癖にって言われるのを恐れる気持ちがある。
教会に行ってる、礼拝に行っている、クリスチャンだ、なんてことが言いづらいって気持ちがあるとしたら、同じような気持ちがあるんじゃないかな。クリスチャンのくせに、って言われそうな心配があったり、礼拝に行くような柄じゃないだろうって言われそうな心配があるから、当たり前にクリスチャンだとか、礼拝に行くとかって言いづらいんじゃないかな。
日本では教会は清い人、できた人が行くところというようなイメージがあるみたいだけれども、教会に行くなんていうと聖人君子に見られそうな気がして、ちょっと用があってと言ってしまう。
そのまま
周りからそう見られると、いつの間にかそうじゃないといけないような気になるのかな。そうじゃない自分は恥ずかしいという気になるのかな。
ええかっこせんでいい、自分の思うことを、信じることを表明すればいい。知ったかぶりする必要もない、罪も汚れもないような振りをする必要もない。分からんことはいっぱいある、神のこともキリストのことも聖書のことも分からないことだらけ、分かっているのはほんの一部だ、と言っていい。でもこんな自分が教会に行っているのだ、礼拝するのだ、神を信じているのだ、と言えたらいいなと思う。
昔ある牧師がテレビの取材を受けたときの話しを何かで読んだ。その人はいろいろ質問されるときに随分わかりませんって答えたそうだ。テレビに呼ばれる程偉い人だったみたいだけど、分かった振りをしないで分からないって答えたらしい。そうしたらそれを見た他の牧師たちの方が、お前は分からないと言いすぎだと言ったそうだ。でも本人はただ正直に答えたまでということだったらしい。
確かに私たちは神のこと、キリストのことを伝えていくようにと言われている。それが教会の大事な使命でもある。しかし背伸びすることはない、分かるところで伝えていけばいい。私たちがキリストのことを全部知ることなどできない。だから私たちの知っているキリストを伝えればいいのだ。自分にとってのキリストを伝えればいい。あの時あの聖書の言葉を読んで嬉しかった、あの御言葉を聞いて安心した、この言葉に慰められたとか力づけられたとか支えられたとかということを伝えればいいのだと思う。自分はどうだったかということを伝えればそれでいい、そしてきっとそれが大事なのだ。それこそが証しなのだと思う。
そのためには私たちが正直でいることが大事なのだと思う。分かることもあるし分からないこともある。どうしてこんな苦しいことが起こるのかって悩むときもある。そんな時は分からないって言えばいい。苦しいときは苦しいって言えばいい。それが証しするってことだろう。いつでもどこでも感謝なんてできないと思う。できない癖に感謝感謝なんて言ってるとしたら、それは自分で自分を騙していることになる。苦しいときにも感謝って言わなければいけないなんてそんなつらいことはない。教会に来たら苦しいことが何もなくなるなんてことはない。しかし苦しいときにも神が共にいてくれる。重荷を負うときにも休ませてくれる、そしてそこでまた苦しみに立ち向かい、重荷を負っていく力を与えてくれる、そんな仕方で神は私たちを支えてくれているのだと思う。だから苦しい時には苦しい顔をして苦しいって言えばいい。それも証しだと思う。