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礼拝メッセージより
エルサレム
身の危険があるからと周りの者から反対されたにも関わらずエルサレム行きを強行したパウロだった。遂にエルサレムの都に到着したパウロと一行。すぐさま、エルサレム教会を代表するヤコブと長老たちを訪ね、異邦人伝道の成果について丁寧に報告し、改めて、理解と承認を求めようとしている。
「パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した」(21:19)。
パウロを通して神が働かれたことを聞きエルサレムの長老たちも、神を讃美した。しかしまだ問題は残っていた。ユダヤ人教会と異邦人教会の間では、律法に対する考え方が違う、という。ユダヤ人キリスト者たちは、もともとユダヤ教徒として、その伝統を重んじてきた人たちであり、聖書に記されている律法の教えを忠実に守り、キリスト者になってからも律法を重んじる生活を続けていた。そういう人たちから見れば、異邦人の中でのパウロの姿はあまりにも自由に見えた。自分たちの大切な伝統を破壊する人間、危険人物に見えたようだ。そこでパウロについてのあらぬうわさが広まっていた。エルサレムから散らされ、異邦人の間に住んでいたユダヤ人たちに対して、モーセの律法から離れるように教えている、といううわさだった。
確かに、パウロは律法の行いが救いを保証するものだとは考えていなかった。パウロは、私たちが救われるのは、ただイエス・キリストの名による、主イエスが十字架の上で成し遂げてくださった救いの業にあずかることによって、私たちは赦され神の子とされる、それ以外に私たちの行いによって神に近づくような道はないと考えていたようだ。しかしだからと言って、律法そのものを否定することはなかった。実際この時もエルサレム教会の勧めに従って清めの式を受けたなんてことも書かれている。けれどもユダヤ人の間には、パウロは律法に逆らう極悪人というようなうわさが広まっていたらしい。
そんな中でエルサレムに行くということはパウロにとってはとても危険なことだった。そして実際神殿の中で捕らえられてしまう。
このとき、パウロは、あわや命を奪われそうになったところを、かろうじて、ローマの軍隊によって守られた。ローマの守備隊としては、そこで騒ぎを起こされると困るので、騒ぎの中心にいたパウロを引き離そうとして逮捕した。千人隊長は、パウロが最近起こった反乱の首謀者ではないかと疑ったようだ。それで厳重に二本の鎖でパウロを縛らせた。実際その頃、エジプト人が追随する者たちを引き連れて反乱を計画したなんてこともあったそうだ。
ところがパウロが千人隊長に向かってギリシア語で話しかけたので、エジプトの反乱分子でないと分かった。パウロが周りにいるユダヤの民衆に話をしたいと願い出て、階段の上に立って民衆を静かにさせ、ユダヤ人の使っているヘブライ語で話し始めた。
ここでパウロは自分の生い立ち、ユダヤ人として教育されキリストを迫害してきたこと、そしてキリストと出会い、異邦人にキリストを伝える者となるようにという声をイエスから聞いたことなどを話した。
ところがここでまた騒ぎになってしまったので、千人隊長はパウロを鞭でたたいて調べようとした。理由はどうであれ、パウロは騒動を起こす張本人だということだったんだろう。けれども千人隊長はパウロが生まれながらローマの市民権を持っていることを知り恐ろしくなった。ローマの市民権を持っているものを裁判にかけずに鞭打つことはローマの法律に違反することだった。
尋問
そこからが今日の聖書の箇所になる。
ここでパウロがアナニアに「白く塗った壁よ」と言っているが、旧約聖書エゼキエル書13:10-16で偽りの預言者を批判する言葉がある。
13:10 平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。
13:11 漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは、はがれ落ちる』と。豪雨が襲えば、雹よ、お前たちも石のように落ちてくるし、暴風も突如として起こる。
13:12 壁が崩れ落ちれば、『先に施した上塗りはどこに行ったのか』とお前たちは言われるに違いない。
13:13 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは憤りをもって、暴風を起こし、怒りをもって豪雨を降らせ、怒り狂って雹を石のように降らせ、すべてを破壊する。
13:14 お前たちが漆喰を塗った壁をわたしは破壊し、地面に打ちつけて、その基礎をむき出しにする。それが崩れ落ちるとき、お前たちもその中で滅びる。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。
13:15 わたしは、壁とそれに漆喰を塗った者たちに対し怒りを注ぎ尽くし、『壁もなくなり、それに上塗りをした者たちもいなくなった』とお前たちに言う。
13:16 エルサレムに預言するイスラエルの預言者たちよ。平和がないのに、都のために平和の幻を見る者たちよ、と主なる神は言われる。
この言葉の反映かもしれないし、あるいはマタイによる福音書23:27で語っている、
23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
という言葉を意識しているのかもしれない。
どっちにしても、こんなこと言われたらそりゃ頭にくるよなと思う。パウロはアナニアが大祭司だと知らなかったからと言っているが、大祭司は最高法院の議長でもあり、大祭司の衣装を身につけているはずなので一目瞭然だったそうだ。ということはパウロが適当な弁解をしたということもみんな分かっただろう。
それに続いてパウロは、自分は生まれながらのファリサイ派だ、死者が復活するという望みを抱いていることで裁判にかけられていると言って、ユダヤ教内部でのサドカイ派とファリサイ派の対立を煽っている。その結果、パウロ対最高法院という図式から、サドカイ派対ファリサイ派という図式に変わってしまっている。
大祭司と知らなかったと言ったり、ユダヤ人同士の対立を煽ったり、パウロはなんだかとても余裕があるような気がする。
ローマへ
そんな状況の中で神はパウロに語りかける、「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」。(23:11)
今日の所ではパウロはすごく勇気があって落ち着いていて余裕もあるような気がする。もちろんそれは表面的なことだけで、心の中はバクバクだったのかな。
パウロはいろんなことに恐れたり不安になったりすることが度々あったことを手紙の中に何回となく書いている。ここでは堂々としたパウロというふうに書かれているが、この時も実はかなり不安があったということかな。勇気を出せ、と言われなければならないような状況だったのだろう。
そんな時に神は語りかける。あなたはローマでも証しをしなければならない、と言う。私の計画の中であなたは生かされているのだ、ローマに行くことは神の計画なのだ、と言われているようだ。
その後パウロは命を狙われることになったことが書かれている。でも結局はローマへ行くことになる。
流れに乗って
パウロのように、ローマで証ししなければならない、なんてことを言われたらどうなんだろうかと思う。そう教えてくれたら、目指すところがはっきりして変に迷うこともなくていいような気がする。でも逆に行きたくないところに行けと言われたり、したくないことをしなさいと言われたら嫌だから、変なこと言わないで欲しいという気持ちもある。
私たちは神の声を直接聞くことはないかもしれない。けれど私たちも神の計画の中に生きるというか、計画というよりも神の導きというか、神の大きな流れの中に生きているんだろうと思う。私たちにはそれがどこに向かう流れなのか分からないことも多いけれど、でもそれが神の流れであるからいつも神と共にいる、神の中にいる、そんな流れだ。
私たちは独りぼっちで、自分の力だけで生きているのではない。倒れたり、挫けたり、躓いたりすることもある。流れが大きすぎて、流れの中にいることさえ分からなくなることもある。
そんなことがあったとしても、でも私たちはその大きな流れの中にいるのだ。神の大きな流れの中で、神と共に生きている。その流れの中に生かされていることを忘れないで、その流れに乗って生きていることを忘れないでいよう。