【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
大変
ある教会の青年が大学生の時に下宿のおばちゃんから、教会に行くのも大変だねえと言われたことがあったそうだ。どうしてそんなことを言うのかと思ったら、その青年は日曜日に帰って来た時にいつも玄関で、ため息をついていたからだそうだ。
日曜日には教会学校を始めいろいろな奉仕をしていた、そしてその奉仕のことで頭がいっぱいで、礼拝の時にもそんなことをいろいろ考えるようになっていた。礼拝を楽しみにし、喜んで行くという気持ちも次第になくなっていっていた。下宿のおばちゃんからため息のことを聞いてそのことに気がついた、というようなことを言っていた。
僕も大学の頃には、同じ世代に人が何人かいて、礼拝後によく一緒に出掛けてたりもしてたので、礼拝には来ていても早く礼拝を終わらないかなあとか、メッセージの時も礼拝終わったらあそこへ行って遊ぼうとか、早く帰ってあのテレビを見よう、なんてことを考えていることが多かったなと思う。
同世代の友だちと楽しく過ごした経験はとても貴重な時間だったなと思うけれど、そういう友だちが転居したりしていなくなると、礼拝に行くのも面倒くさくなってよく休んでいた。礼拝は義務でもないし休みというのも変な言い方だけど。
別れ
そんな自分から見るとパウロが命がけでいろんなところへ出掛けて行って伝道したなんてことは本当にビックリする。その原動力は一体なんなんだろうと思う。どんな思いで、どんな気持ちでいたんだろうか。
第3回伝道旅行で、パウロは諸教会を訪問し弟子たちを力づけた。特にエフェソには2年以上滞在し多くの人々をキリストの信仰へと導いた。その後マケドニアに行き、聖霊に示されてエルサレムに向かう途中、ミレトスでエフェソの長老たちを呼んだ。その時行った決別説教というか遺言の説教というか、それが今日の聖書箇所だ。パウロは五旬節までにエルサレムに着いていたかったとのことで、急いでいたのでエフェソには立ち寄らなかったが、エフェソのことが心配でわざわざ長老を呼んだようだ。
というのも、パウロはエフェソの教会の人たちともう会うことはないと思っているらしくて、だから最後に大事なことを伝えておきたいと思っていたようだ。
懸念
その話しの中でパウロは、教会は神が御子の血によって御自分のものとなさったと言っている。イエスの血によって、イエスの十字架によって神のものとされたものが教会であるということのようだ。そしてパウロは長老たちに対してその教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命した、というのだ。
パウロは教会の中に残忍な狼どもが入り込んできて群れを荒らすことを心配している。この「狼」は、悪の勢力の象徴として、聖書にしばしば登場する。これは、1つには、教会に対して反感を持つこの世の勢力を意味しているのだろう。パウロ自身、エフェソにおいてアルテミス神殿の偶像を造る職人の扇動によって、危険な目に遭った。教会は、そのような偶像礼拝を否定して、天地創造の真の神を礼拝することを説くわけで、この世の勢力からは常に狙われる危険にある。
また、教会は外側からの攻撃だけでなく、内側からも揺さぶられる。ここで「あなたがたのところへ入り込んで来て群を荒らす」(29節)と言われているのは、むしろ教会内部の方が問題なのかもしれない。あなたがた自身の中から邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れる、と言っている通りだ。
み言葉
だからパウロは自分の教えてきたことを思い起こし目を覚ましていなさい、という。そして、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねると。
この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができる、というのだ。
パウロはエフェソの人々と別れて、二度と見ることはないだろうと告げる。その代わり、み言葉にエフェソの教会を委ねる、という。このみ言葉こそ、教会の最も堅い礎となった。このみ言葉こそ、「救いを得させる神の力」である(ローマ1・16)。
そのみ言葉の上に、しっかりと立つようにというのがパウロの願いであり、それがパウロの遺言でもある。それこそが最も大事なことなのだ、と言うことのようだ。
恵み
今日の聖書の中で今回気になった言葉が「恵み」だった。
24節で「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」
32節には「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」
恵みの福音、恵みの言葉とあることに初めて気付いた。そしてこの言葉は恵みを受け継がせることができると書いてあった。
恵みとは与えられるものということだろう。受けるにふさわしくないのに、受けるに値しないものなのに与えられるもの、それが恵みだろう。
パウロは伝えたものは恵みの福音であり、恵みの言葉なんだろうと思う。
それは私たちが努力して勝ちとるものではないということだ。崇高な信仰心を持つことで与えられるというものでもないということだ。邪念を振り払って純粋に信じることで初めて与えられるというものでもないということだ。
恵みとしてただただ与えられるもの、イエスの福音はそんな恵みの福音なのだ。イエスの言葉はそんな恵みの言葉なのだ。
パウロの言う邪説とはその恵みを否定する教えということなのではないかと思う。無条件の愛を否定し、条件付きの愛にしてしまうことこそが邪説なのではないかと思う。
こんな自分では駄目だ、こんな自分は愛されない、そんな思いなることが多い。けれどそれこそが邪説ということなんだと思う。
パウロは恵みの福音、恵みの言葉によって生かされていたんだろうなと思う。そしてその恵みを大事にするように、教会が恵みの福音、恵みの言葉から離れることがないように目を覚ましていなさいと言っているのではないだろうか。