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礼拝メッセージより
言葉の意味
パウロがアテネに行った時の話。アテネにはおびただしい偶像があった。つまり神と言われているもの、神の名の付いたものがいっぱいあった。アテネの人たちは偶像だなどとは思っていないだろうけれど。
今の日本の状況と似ているところがあるのかもしれない。日本には八百万の神がいて、ということをよく聞く。神は至る所にいて、偉い人も神としてあがめらることもあるようだ。
聖書にも神と書いてあって、神という同じ言葉を使っているけれど、中身は随分違うなあと思う。
神
もし神が聖書が言うような、天も地を創り、この世界のあらゆるものを支配しているといったような神であって、それこそを神と呼ぶならば、この神以外に神は存在しようもなく、ほかにどんな神がいるのか、なんてことは心配する必要はない。
しかし、神というものがが唯一絶対と言うものでなくて、つまり神というものがいっぱいいるとしたら、縁結びの神、安産の神、学業の神というように、いろんな場面で、いろんな神にお願いしないといけないということになりそうだ。
その神も、ただ願いを叶えてくれるというだけの神ならば、ひとつやふたつは忘れていても対して影響はない。こっちの神を拝むとこんないいことがあり、あっちの神にお参りするとこんなことをしてくれる、というように神が何か自分の願望を叶えてくれるだけの存在であるならば、拝まない神があったとしても少しお恵みが少なくなるだけだから別に大した支障もない。
でも、その神が人間に悪影響を及ぼす神だとすれば、つまり拝んでいないと悪いことをする、なだめておかないと災いを起こされる、なんていうものだとすれば、ひとつとしておろそかには出来ない。拝まないで忘れてしまっている神がいたりすると大変だ。それこそ、よくわからんでも、何も知らんでも、とりあえずは拝んでおかないといけない。「知られざる神」というものがそういうことから登場してきているのだろうと思う。
信じる
日本には八百万神がいるということをよく聞くし、その点ではこの時のアテネと似てるような気もする。けれども現代の日本人の多くの人が無宗教だと答えるそうで、神を信じるということ自体、ちょっと変わっている人というような見られ方をしている気がする。科学万能の時代ということなのかな。科学で解明できないものは存在しないものとするというような感覚があるような気がする。
昔オウム真理教が事件を起こした時にはテレビでも毎日のように騒いでいた。いわゆる知識人といわれるような人たちがよく出てきていたが、そのほとんどが神を信じないとか、宗教は信じないという人のようだった。
ある時討論をする番組の中で宗教の関係の話しをしていたときに、ある外国人が「神を信じていないなんてのは人間ではないようだ」というようなことを言っていた。
やっぱり同じ神という言葉だけれど、それが指しているものは随分違うようなきがする。
では聖書が告げる神とはどのような神か、この神を信じるとはどういうことなんだろうか。信じるというと、自分が何かを一所懸命に握りしめている、すがりついているようなイメージがあるけれど、でもそういうのとはちょっと違うような気がする。信じているというのは、神がいると思っているというか、神がいることを分かっている、と言っが方がいいような気がする。
イエスは神と人間の関係を父と子どもの関係に譬えたことがあるが、つまり子どもが自分の親を親だと思う気持ち、それが人間が神を信じる気持ちに近いのではないかと思う。親に対して、子どもがことさらこの人はわたしの親だと信じてます、なんてことはない。神を信じるというのは、この神を知っているというのに近い気がしている。
見えない神
今日の聖書の中で、パウロが、「神は天地を造った方だ、人間も神が造ったのだ、だから人間が造った宮に住んだりしない」ということを言っている。そして捜せば見つけられるようになっている、神はそのようにしているんだ、と言っている。どうしてそうなのかと言うと、神は遠くにいるんじゃなくて、私たちが神のうちに生き、動き、存在しているからだ、と言っている。
パウロはガラテヤの信徒への手紙に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2:20)と書いている。一方では人間が神のうちに生き、片方では神が人間のうちに生きていると言っている。全くおもしろい。私たちが神の中にいて、その私たちの中にも神はおられるということなのだろう。
中にいるから
神がいるかどうかよく分からないというのは、私たちが神の中にいるから、しかも神が私たちの中にいるからではないかと思う。神が私たちとは離れた別のところにいるなら、そこにいるとかいないとか言うこともたやすい。でも神の中に私たちがいる、となるとなかなか分かりにくい。ここが神の中なんだと言われてもなかなか分かりづらい。
産まれる前の、母親のお腹の中にいる子供のようなものなんじゃないかと思う。産まれる前の子どもに向かって、おまえはお母さんのお腹の中にいるんだぞと言っても、それを理解するのは難しいだろうと思うけれど、それと似ているような気がする。
ということは神がいるのかいないのか、なかなか分からないと言うことは、私たちが神の中にいるからだと思う。そういう神だから、神はひとつしかあり得ないということにもなる。そうすると他の神がいたらどうしようという心配もなくなる。中にいるならば神から離れないように必死にしがみついている必要もない。その中に生きているのだから離れようもない。
だからこの唯一絶対の神がいるからこそ自分たちがここにいる。神なしでは僕らもない、存在しないということだ。外国の人が言うように、神を信じないなんてのは人間ではないと言うことになる。
だから神を信じると言うことは何も特別のことをしているのではなくて、それが人間にとってごく当たり前のことなんではないかと思う。
大事
そこで気になるのが、ではこの神が私たちのことをどう思っているか、どう見ているかと言うことだ。聖書によれば、神は私たちを愛していると言っている。神は私たちを大事に大事に思っている。一人ひとりを、それぞれにかけがえのないものとしてみている、認めているということ。
オウム真理教の事件に関するテレビを見ていた時に、その中である人が、あの人たちは結局認められていなかったんじゃないか、とかいうことを言っていた。社会から、他のものから認められていなかったんじゃないかというようなことだったと思う。
認められるということがすごく大事なことだと思う。認められるているということで安心することが出来る。そこから生きる気力もでてくるように思う。世の中がだれも自分のことを認めてくれていない、と思って生きているのはとてつもなくつらいことだろう。自分が生きていても死んでいても、ここにいてもいなくても関係ない、どうでもいいと思っているとすればとても悲しいことだ。こんな不安なことはない。こんな不安定なことはない。
その話を聞きながら、神は認めているのに、なんてことを思っていた。神が認めているということを知っているということはなんと幸せなことかと思った。自分がここに生きていることを認めている、おまえはおまえでいいんだと言ってくれている、私を造った、なんもかも造った、その神がわたしのことを認めている。認めているだけではなく愛してくれている、大事に思ってくれている、そのことを知っているということはなんと幸いなことだろうと思う。
そんな神の思いを知っている、その神の熱い想いを受け止め、安心して喜びを持って生きる、それこそが神を信じるということなのではないかと思う。
復活
イエスはその神の熱い想いを私たちに伝えてくれた。十字架で処刑されたけれど、復活させられ今も私たちの心の中にいてくれている。
パウロは、死者の復活を告げたことで、アテネの多くの人に拒否されたようなことが書かれている。神という言葉もそうだけれど、復活ということも、それが意味していることが、パウロとアテネの人とでは食い違っていたんじゃないかと思う。
アテネの人たちは復活と聞いて、死んだ人がもう一度ムクムクと生き返ることをイメージしていたんだろうと思う。だからそんなことはない、そんな話しは聞いてられないと思ったんだと思う。でもパウロの言う復活はそれとは違うんだろうと思う。
パウロが復活のイエスと出会ったということが使徒言行録に書かれているけれど、それはイエスがみんなの前に忽然と現れたというよりも、やっぱりパウロの心の中に現れた、言わば心の中の出会いだったようだ。
私たちの心の中にイエスがやってくる、イエスの復活とはそういうことではないかと思う。もしイエスが墓から肉体を持って生き返ったとしても私たちはそのイエスと会うことは難しい。けれど私たちの心の中にやってきてくれるならば、私たちもイエスと出会うことができる。そしていつも私たちと一緒にいてくれる。