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礼拝メッセージより
シモン
イエスは十字架につけられることになった。
兵士たちはそこを通りかかったシモンという人に十字架を担がせた。張り付けにされるものは自分で十字架の横木を運ばされたそうだが、イエスは前夜からの徹夜の取り調べとむち打ちで体力も残っていなかったというなんだろう。このシモンの子どものアレキサンドロとルフォスは後にイエスを信じるものになったそうだ。
イエスはゴルゴタという所へ連れていかれた。ゴルゴタはされこうべの場所という意味と書いてある。名前の由来は、骸骨に似た地形だったからだとか、あるいは処刑場だったので骸骨がころがっていたからだと聞いたことがある。
十字架
その処刑場にやってきた囚人たちは十字架にロープで堅く縛られるか、あるいは手首を釘で打ちつけられたそうだ。そして囚人たちは十字架上で力尽きて死ぬまで苦しみ続けるそうだ。十字架刑は当時もっとも屈辱的な刑で、普通丸1日か、2日間苦しんでから死んだそうだ。死んだあとの死体も普通は野ざらしにされ、鳥やけものの餌にされていたらしい。
イエスは朝の9時に十字架につけられた。そして十字架につけられてからも、道行く人や祭司長、律法学者たちにあざけられた。「十字架から降りて来い、そうしたら信じてやろう」という風に。またイエスと共に十字架につけられた囚人からも罵られたと書かれている。
昼3時に息をひきとるまで6時間、十字架の上にいた。どんな痛みだったのか、どんな苦しみだったのか。
そしてこの時、イエスの12弟子たちはもうそこにはいなかった。マルコ14章を見ると、イエスの弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ出してしまっている。後でこっそり追ってきたペトロも、まわりの者から問い詰められ、3度イエスを知らないと言う。一緒に行動をともにし、一緒に生活をしてきた12弟子はもうすでにいない。そこには遠くから見守っている女の人たちがいるだけだ。男は誰もいないようだ。
イエスの最後の言葉は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」だった。これはイエスが日常的に話していたアラム語で、その意味は「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」ということのようだ。
後の時代に書かれた他の福音書には十字架上でもっとかっこいいことを喋ったと書かれている。しかしマルコによる福音書にはこの言葉しか書かれていない。実際はマルコによる福音書が実像に近いのではないかと思う。人々に完全に見捨てられ、そして神からも見捨てられた、その様な状況にイエスは立たされたのだ。
神の子
31節には「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と言った人がいたと聖書は語っている。
こういうときこそ、奇跡をおこして、颯爽と十字架から下りてくればいい、それこそがキリストである、そうしたらみんな信じただろうにと思う。
イエスは様々な奇跡と言われるようなことをやってきたと書かれている。なのにこの時は奇跡と言われるようなことは何も起こしていない。起こせなかったんだろうか。それとも起こせたけれど敢えて起こさなかったのか。
ところがこのイエスの姿を見て、この人こそ神の子だという人がいた。
39節『百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。』
百人隊長とは読んで字の如く、100人程の部隊の長で、イエスを処刑を担当したローマ帝国の兵隊であり、ユダヤ人から見ると異邦人ということになる。そもそもローマの人は神の子とはローマ帝国の皇帝のことを神の子と言っていたそうだ。
38節『すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。』と書かれている。これは神殿の奥にある大祭司しか入ることができない至聖所を区切る垂れ幕のことみたいだけれど、処刑場のゴルゴタからはもちろんその垂れ幕が見れる訳ではない。
この百人隊長はただ大声を出して絶叫して死んでいったイエスを見て、この人は神の子だったと言ったというのだ。弟子から見捨てられ、周りの者たちからも馬鹿にされ、孤独に苦しみ、痛みに苦しみ、絶叫して死んでいったイエスに対して、本当にこの人は神の子だ、と告白している。
そこには私たちがしばしば思い描く神々しい神のしるしといったものは何もない。なのにどうしてこんなことを言ったんだろうか。イエスの死に様から何か感じ取ったんだろうか。
そもそも神とはいったい何なのか、神とはどういうものなのか。いろいろなイメージ、人それぞれに持っているだろう。
すごい奇跡をおこす力を持ち、光輝く姿で悪者を懲らしめ世の中の不正を正していく、そしていつもどこか高いところから、私たちを見ている、それが神の姿、だれもがそんな神のイメージを持っているのではないか。でもそんなイメージにはとても似つかわしくない姿がここにある。私たちの期待に答えるような姿は十字架の上にはない。
あの言葉は絶叫ではない、あれが絶叫だなんて思いたくない、という気持ちもある。何か深い意味のある言葉に違いない、と思いたい気持ちになる。十字架の姿だって、単なる仮の姿でしかないに違いないと思いたくなる。本当の神の姿はこんなんではないのだ、と思いたくなる。でもそれは実は勝手な思い込み、自分自身が勝手に持っている神にイメージなのかもしれない。
垂れ幕
神殿の垂れ幕が裂けたと書いてあるけれど、それは神と人間を分けていたものがなくなった、神が人間側へやってきた、神がイエスとして人間の世界へとやってきたということを伝えようとしているということではないかと思う。
イエスは天という人間とは別のところにじっとしているのではなく、人間とは別世界の聖なる場所にじっとしているのではなく、人間の俗世間にやってきてくれたということだと思う。イエスは私たちの所まで来てくれた。同じ高さに立ってくれた。悩み苦しみもがきながら生きている、ここにやってきてくれたということではないかと思う。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙2:6-8)
そして苦しみをも味わってくれた。私たちと同じ苦しみを、それ以上の十字架の苦しみを味わってくれた。人に捨てられ、神にも捨てられ、完全に孤独な状況に立ってくれた。最後まで弱い人間として、私たちと同じ弱い者として、苦しみの中にいてくれた。最後まで私たちと同じ所にいてくれた。絶叫するしかないような所まできてくれた。
それは、私たちが苦難に遭い、失敗し、落ち込み、人にも見捨てられ、神などいないと叫ぶとき、しかしそこにもイエスはいてくれているということを表している。私たちが「神よどうして私を見捨てるのか」と叫ぶ時、そこにイエスはいてくれているのだ。絶叫する私たちのすぐそばにイエスはおられる。イエスは私たちの期待するような力ある神でいるよりも、弱い私たちとどこまでも共に居ようと弱くなってくれたのかもしれないと思う。
イエスは自分のことをキリストだと見せつけてみんなを信じようとさせなかったような気がする。奇跡を起こして、みんなをアッと言わせて、俺はキリストだぞ、みんな俺に従え、なんてことはしなかった。病気を癒した時にも黙って居るようになんてこともあった。
イエスはみんなから崇められるようなことは望んではいないようだ。みんなからキリストだと信じてもらいたいなんて思ってはいなかったようにも思う。
それよりも私たちと一緒にいることを望んでいたのかなと思う。弱い私たちといつも一緒にいることを望んでいて、その結果が十字架だったのかないう気がしている。
ここにいる
私たちが、みんなから見捨てられる時も、ののしられ、馬鹿にされ、ののしられる時も、イエスは一緒にいてくれる。
私たちが、どうしてこんなことになるのか、どうしてこんなことが起こるのか、もう神から見捨てられた、神などいないと言うような時にもイエスは私たちと一緒にいるということだ。
私たちの嘆きを、私たちの叫びを聞いてくれ、そして一緒に嘆き、一緒に苦しみ、一緒に悲しみ、一緒に泣いてくれる。
それは何よりもイエス自身が苦しみを経験し、絶叫し、その辛さをよく分かっているからだと思う。
苦しみ、悩み、悲しみ、絶望し、そして神に向かって悪態をつく、そんな私たちが生きている、まさにここにイエスはいてくれているのだ。今ここにいてくれている。