【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
逮捕
イエスはゲツセマネで祈った後、逮捕され大祭司の下へ連行される。14章50節には「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」と書かれている。
しかし「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。」(14:54)
逮捕された時には逃げてしまったけれど心配になって様子をうかがいに来たということかな。その時にイエスのことを知らないと言ってしまったというのが今日の聖書箇所だ。
夜明け前
下役たちと一緒に火にあたっていたということは、まさか自分のことがばれるとは思ってなかったということなんだろう。鶏が鳴く前の出来事なので夜明け前の暗いときであり、灯りといっても寒さを凌ぐためのたき火の灯りくらいしかない状況だったと思う。
勿論身元がばれてしまうとやばいことになりかねないということは分かっていただろうけれど、ばれそうになった時にどう答えようかという準備は何もしてなかったのかな。というか思わぬ人から不意を突かれてしまったのかなと思う。だからついつい「あなたが何を言っているのか、わたしには分からない、見当もつかない」なんて言ったんだろうと思う。そして追い打ちをかけるように、あいつらの仲間だと言われ、そんな人は知らないなんてことを言ってしまったのだろうと思う。
鶏が二度鳴いたことで、ペトロはイエスとの話しを思い出したのだろう。「イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』ぺとろは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決してもうしません。』皆の者も同じように言った。」(14章30-31節)。
ペトロはイエスの言葉を思い出し泣き出した。
ムードメーカー?
マルコによる福音書8章27節以下によると、ペトロはある時にはイエスに対して「あなたこそ生ける神の子キリストです」と言い、そのすぐ後で、イエスが、わたしは殺されると言い出したときには、そんなことないでしょうと言ってイエスをいさめて、逆にイエスからサタンよ、悪魔よなんて言われている。
ペトロは情熱家、熱血漢の様にも見えるし、ちょっとお調子者というかムードメーカーのようにも見える。メシアなんだから殺されるなんて暗い話しをしないで元気にいきましょうよ、って感じだったのかなという気もする。周りを盛り上げて、みんなを引っ張っていこうというような、そしてイエスをメシアの座に着かせようというような思いだったんじゃないかなという気がしている。
落胆
しかし、それだからこそ余計に、この時イエスを知らないと言ってしまったショックは大きかったのではないか。なんというだらしない奴だと自分のことを攻めていたに違いない。大の大人が泣くほどだから相当のショックだ。それほど自分のことが情けなかったのではないだろうか。偉そうなことを言って、イエスについてきた。どこまでもイエスについていくつもりだった。たとえ死ぬことになっても一緒についていくというのも、口からでまかせというわけではなかったのだろうと思う。その時にはその自信もあったのだろう。
それなのに、なんだかよくわからんうちに、突然イエスは捕まえられてしまった。急に状況は変わってしまって、気持ちの整理もつかないままについ逃げ出してしまい、どうしようどうしようと思っているうちに、お前も仲間だろう、なんて言われて、つい、知らないと言ってしまったんだろうと思う。
ペトロはこの時、自分がそんなに立派ではないことに気づいたのだろう。少なからずあった自信を粉々に砕かれてしまったのだろう。そしてペトロは泣いた。自分の情けなさ、惨めさ、恥ずかしさ、そして弱さを嘆いての涙だったのだろうと思う。ペトロは鶏の鳴き声を聞きながら、大祭司の屋敷から逃げ帰ったのかなと思う。
再会
マルコによる福音書はもともと16章8節で終わっているそうだ。9節以下は後で付け加えたもののようだ。
そうするとこの福音書ではペトロはいきなり泣き出した、というところでもうこの後には登場しない。ただ16章7節で天使らしき若者が、イエスは復活してここにはいない、弟子たちとペトロにガリラヤでお目にかかれると伝えなさいという伝言を託したというところに名前が出てくるだけだ。
復活したイエスとガリラヤで会うというのは、実際イエスが目の前に現れるということかもしれないけれど、それよりもかつてガリラヤで共に過ごしたイエスの姿、そこで聞いたイエスの言葉をもう一度噛みしめるということだったのではないかと思う。イエスの苦悩と十字架の死を通して、もう一度イエスの生き様を思い起こし、もう一度イエスの言葉を噛みしめたのだろうと思う。そうすることで、改めてイエスと出会ったのではないかと思う。強く大きな国にする力に満ちた王という期待を持っていた時には見えなかったイエスの本当の姿が、十字架を通して初めて初めて見えてきたのだと思う。
信仰
そしてそこからペトロの信仰は始まったのだと思う。
ペトロはイエスを知らないといったことで、自分のダメさや不甲斐なさに打ちのめされていたのだと思う。恥ずかしい思いでいっぱいだったのだと思う。
しかしだからこそ、かつてガリラヤで聞いていたイエスの言葉が身に染みて来たんではないか、そこで初めてイエスの愛に気が付いたのではないかと思う。
神を信じると言うことは、自分を頼ることではない、自分を頼りとしない、と言うことだと思う。自分自身の熱心さとか信仰深さとか、まじめさに頼ることでもない。そういう自分自身の中にあるものに頼ることは人間に頼ることである。人間を、また自分を頼りとする時、いつか挫折する。しかしその挫折によってペトロは信仰というものを知ったのではないか。自分の弱さ、だらしなさを知ったとき、神を信じることが分かったのではないか。
挫折することはとてもつらいことだ。自分の自信なんてものは吹っ飛んでしまう。自信がなくなると、生きることはとてもつらいことになる。自分のだめさばかりを気にして生きていくとしたらこれはつらい。自分の頼りとするものがないとなると生きることは大変だ。
しかし、そんな自分のことをしっかりと支え認めてくれている方を発見したら、頼れる方を発見したら、そしてそれが頼るべき方なら、これは前にもまして安心して生きられる。
イエスはペトロが自分のことを知らないと言うだろうと言われていた。そう知りながら、イエスはペトロを見放すことはなかった。見捨てることはなかった。ペトロの方から逃げ出すまで一緒にいた。そういうペトロと分かっていて、自分の弟子として認めていたのだ。
ペトロは、自分のだらしなさを嘆いて泣いたことだろう。しかし、その自分のことを見放さず、弟子としてくれていたイエスの偉大さをことさら感じたのではないか。
傷跡
大祭司の屋敷にはペトロ以外の弟子は誰もいないようだ。だったらこのことはペトロが黙ってれば誰にも知られなかったんじゃないかと思う。なのに聖書は記している。ということは、きっとペトロ自身がこのことを話していたということだろう。自分自身で後の人に繰り返しこのことを聞かせていたのではないかと思う。
生きるってことは傷を負っていくことでもあると思う。失敗したり挫折したり、誰かを傷つけたり傷つけられたり、少しずつ傷跡を増やしていくのが人生でもあるように思う。しかしその傷跡に優しい手を当ててもらう時、暖かく覆い尽くしてもらう時、そこには大きな喜びと安心がある。ペトロはイエスを知らないと言った恥ずかしい出来事を通して、逆にイエスの愛、神の愛の大きさと暖かさを知ったのだと思う。
私たちの傷跡にもイエスは手を当ててくれている、その傷跡から神の愛、暖かさが伝わってくるのではないか。