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礼拝メッセージより
しんどい
礼拝で取り上げる聖書が十字架が近づいているからかどうか知らないけれど、先週は特に午前中は気分的にしんどい日が続いている。もともと心配症だし、自己肯定感も低いので、お金のことや、教会もこれからどうなるのかと心配し、かといってそれに立ち向かっていこうという気力も知恵もないし、本当にダメな牧師だなあと思って、しんどい気分で朝を迎えている。
そんな時に、心配ばかりしてる奴は心配するだけで結局何も行動してないんだ、というような言葉を目にして、確かにそうだなと思いつつ余計に落ち込んだりしていた。
苦しみ
そんな自分と同じようなと言うと言い過ぎだとは思うけれど、今日の聖書箇所では苦しみもだえるイエスが登場する。
キリストが、救い主がどうして苦しんだりするんだろうか。キリストは人間を救うことができる。救うために来たのではなかったのか。そんな救い主がに苦しむのか。そんな訳ないだろうと思う。苦しむために来たのか。苦しむために生まれたのか。救い主はそんなことでいいのかと思う。救い主が弱音をはいちゃいけないんじゃないかと思う。何があってもうろたえることなく、堂々としてないといけないんじゃないのかと思う。でもどうも実際のイエスはそうではなかったようだ。
最後の晩餐を終えたイエス・キリストと弟子たちはオリーブ山へ出掛けた。そしてその時に弟子たちに、あなたがたは皆わたしにつまずくと言ったという。するとペトロが、みんながつまずいてもわたしはつまずきませんと言ったけれど、逆に今夜鶏が鳴く前に三度私を知らないと言うだろうと言われ、それでもペトロは、死ぬことになっても知らないなどとは言わないと答えたことが書かれている。
しかしイエスはやがて裏切るだろう弟子たちと一緒にゲツセマネに向かった。ゲツセマネとは「オリーブの油搾り」とか「油圧搾器」という意味の言葉だそうだ。オリーブ山のふもとに油を絞る設備があったことからその名前がついたらしい。
そこでイエスは、ひどく恐れてもだえ始めたと書いてある。十字架を恐れているということだろうか。イエスには十字架が見えているのだろうか。十字架に付けられることが分かっていたのだろうか。
そこでイエスは3人の弟子に「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言ったと書かれている。そして「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言って少し離れて祈ったと書かれている。
死ぬばかりに悲しいなんて、そんなことを聞くほうも悲しいと思う。キリストがそんなこと言うなよ、どんな苦難にも立ち向かって、どんな苦しみにも、なにがあろうとも、ただ黙々と神を見上げていくべきじゃないのか。あるいはその苦しみをはねのける、それこそがキリストのあるべき姿ではないのかとさえ思う。
クリスチャンというものについても同じようなことを思っているところがある。なにがあっても平気、だって俺は神を信じているんだから、神がついているんだから大丈夫という風になりたい、そうなってこそ信仰者だと言える、本物のクリスチャンだと言える、という気持ちがどこかにある。
教会の中でも、神を信じていれば大丈夫、心配するな、私も乗り越えてきたとか、神がこうやって助けてくれた、神はすばらしい、なんて立派な話しを聞くことが多い。苦難に直面して、悩み悲しみ苦しむを耐え忍ぶ、なんてことはどことなく信仰者として失格であるかのような気持ちがあり、そんな姿を見せるのも憚られるような気がする。そんな状態では礼拝にもいけない、もっと元気に信仰深くなってから行こうなんて考えることもあるのではないか。
しかしイエスはここにあるように、弟子たちには死ぬばかりに悲しいと言っている。死ぬばかりに悲しいとはどういうことなんだろうか。死ぬばかりに苦しいの間違いじゃないのかと思ったりもするけれど、死ぬばかりに悲しいとはどういうことなんだろうか。礼拝の後の分かち合いで教えて欲しい。
その後イエスはこの杯をわたしから取りのけてくださいと祈っている。この杯、つまりこの苦しみ、十字架ということになるのだろう、この苦難をわたしから取りのけてください、とイエスは祈っている。
これは僕らの祈りと大して変わらないと思う。苦しいことばっかり多いこの世の中で、どうしてこんなことになるのか、こんな苦しみにあわせないでくれ、どうしてこの俺がそんなことにならねばならないのか、どうして、どうして、と言う問いを繰り返し問い続ける、そして苦しみに遭わせないでくれ、この苦しみから救ってくれと祈る。それがまさに私たちの姿だろうと思う。
そしてイエスもそうだったのだ。イエスがどうして十字架にかからねばならなかったのか。イエスが神であるのならば、そんな死刑になんかならなくてもいいではないか。神の力でどんなことでもできたはずではないか。自分を十字架につけようなんていう不届き者を成敗してしまえばよかったのに。神ならば、そうできたのではないかと思う。
どうしてそうしなかったのだろうか。それはイエスは神として人間とは別世界の、高い高いところにじっとしてはいなかった、ということだろうと思う。
飽くまでも人間のところにいた、人間と同じ高さに立っていた、苦難を前にしても、十字架を前にしても、人間であり続けたということなのだろうと思う。神でありながらどこまでも私たちと同じ弱い人間であり続けた。十字架で殺されるまで私たちと同じ人間であり続けたということなんだろう。そして苦しみ続けた。またもがき祈り続けた。
祈り
ちょっと余談ですが、今日のマルコによる福音書14章11節にも、「イエスは三度目に戻って来て」と書いてある。
マタイによる福音書26章43節に「そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。」と書いてある。3回同じように祈ったんだろうなと思っていたけれど、マルコによる福音書の三度目というのがちょっと気になっている。
一度祈った後戻ったときに弟子たちが眠っていて、目を覚まして祈っていなさいと言われて、39節でもう一度祈って、40節で二度目に戻るとまた弟子たちは眠っている。その後また祈ったとは書かれていないのに、41節で突然三度目に戻って来ている。40節と41節の間に祈ったのだろうということなんだろうけれど、三度祈ったという言葉はないような気がする。
マタイも同じようなことを思ってこの言葉を補ったのかな。
それはさておき、イエスの杯を過ぎ去らせてくださいという祈りに対する答えがなかった、ということだ。答えのないままだ。答えのないままに祈っていた。答える声が聞こえない、というのがイエスにとっては答えだったのだろうか。そのまま、というのが神の答えだったのだろうか。
苦しい状況を変えてくれるように願って祈っても、なにも変わらないことがある。だから神は祈りを聞いてくれないじゃないかと思う。しかし実はそれが神の答えだと言うことなのかもしれない。イエスは、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈っている。
御心のままに行ってくださいと言いつつ、それでもまた祈っている。自分の願い通りにはならない、御心のままに、神の計画の通りに、と頭では分かってはいる、けれども祈らないではいられない、ということだったのではないかと思う。
三回祈ったことによってイエスは納得できたんだろうか。御心に従うことを受け止めることができたんだろうか。
そんな風に御心を受け止めていく、神の声を聞いていくこと、それが祈りでもあるのだろうと思う。苦しい状況を、苦しい現実を神の力で変えてもらうためと言うよりも、苦しい現実を受け止めていくこと、現実を受け止める力をもらう、実はそれこそが祈りなのかもしれない。
悲しみ
イエスは悲しみもだえはじめ、また「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言っている。苦しいから、この杯が過ぎ去るようにと祈っていたと思っていたけれど、そうじゃないんだろうか。悲しいからなんだろうか。何が悲しいのだろうか。
昔ネットで色んな教会の説教を見ていた時に、日本キリスト教団の花巻教会の牧師が悲しいということに触れていた。これは神に祈っても祈っても答えがない、神は一体どこにいるのか、もう神に見捨てられてしまったのではないか、そんな悲しみではないかと書いてあった。
イエスが、死ぬばかりに苦しいではなくて、死ぬばかりに悲しいと言ったのは見捨てられて一人取り残されているということなんだろうと思う。だからこそ弟子たちにも起きて祈っていてくれ、近くに居てくれと言ったというかなと思う。イエスはそれほどの悲しみに襲われているということなんだろう。
悲しいと言える
この前週報の裏にも書いたけれど、「悲しみを乗り越えるのに一番必要なのは、悲しいときに悲しいと言える人がいること」という言葉を聞いた。
先日亡くなったラジオのパーソナリティーの人の言葉だそうだ。同じラジオ番組を担当していたアナウンサーは次の放送がある前の晩に訃報を聞いたそうだ。少し前に入院していたけれど当然回復して帰ってくるものと思っていたそうで、大変なショックで次の日に放送局に出勤できるかどうかも分からないような状態だったそうだ。眠れなくてそのパーソナリティーの人のエッセイを読んだときに、翌日の放送をしなければいけないと思ったそうだ。そのエッセイの中にあったのが、「「悲しみを乗り越えるのに一番必要なのは、悲しいときに悲しいと言える人がいること」という言葉だった。
これを聞いた時に祈りってこういうことなんじゃないかと思った。悲しいと言うこと、辛いと言うこと、苦しいと言うこと、それこそが祈りなのではないかと思った。神の御心を聞いていく、受け止めていくことも祈りなんだと思うけれど、そんな格好いいこと言ってられない、悲しくてたまらない、苦しくてたまらない、その思いを聞いてもらうこと、それこそが今の僕にとっては祈りのような気がしている。
イエスはそんな思いをしっかりと聞いてくれている、受け止めてくれていると思う。何よりイエスがもだえ苦しむような悲しみを経験した方だから、苦しくてたまらないと祈る経験をした方だから、だからこそ私たちの悲しみ苦しみをしっかりと聞いてくれる、受け止めてくれると思う。だから私たちは心の深みにある思いを包み隠さず話す事ができる、祈る事ができるのだと思う。
インマヌエル、神我らと共にいます、とはそういうことなんだろうと思う。
祈りと言えるようなものなのかどうかも分からないが、朝起きてすぐに、つらいよ、苦しいよ、と言いつつ一日を始めているこのごろだ。
そんな思いを聞いて受け止めてくれる相手、そんな思いを祈る相手がいることはホントに嬉しいことだ。そんなイエスが共にいてくれている。