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礼拝メッセージより
生まれなかった方が
最初に赴任した教会では家庭集会というのをしていた。ある家での集会の時に、その家の人の職場の同僚の人が来ていて、今日の聖書にある「生まれなかった方が、その者のためによかった。」というイエスの言葉について、あまりにも酷い言葉だと思う、イエスの他の言葉には感銘を受けるけれど、この言葉は納得できない、どうしてこんなことを言ったのか、と言うような質問をされた。
牧師になって間もなくだったけれど、分からないという言う勇気も無くて、兎に角聖書の弁護というかイエスの弁護をしなきゃいけないような気持ちが強くて、相当無理していろいろ弁解したような思い出がある。何をどう喋ったのかは全然覚えてないけれど。
聖書の中には時々どうにも理解できないことが書かれていて困ってしまう。
過越の食事
今日の聖書の箇所は過越の食事の場面だけれど、この食事はかつてイスラエルの民がエジプトで苦しんでいたとき、神がエジプトから脱出させてくれたということを記念する食事だ。
神がいろんな災いを起こしたけれどエジプトの王はイスラエルの民を脱出させなかった。最後にエジプトの初子はみんな死んでしまうという災いを起こした。しかし鴨居に羊の血を塗っていたイスラエルの人の家はその災いが過越していった、エジプトの王はこの災いによってとうとうイスラエルの民を去らせた。そのことを記念して年に一度過越の祭りの時には、かつて急いでいたために種を入れないパンを焼いたと同じように、イースト菌を入れないパンを焼いて、小羊を殺してその肉を食べた。
ユダ
イエスの最後の食事がちょうどその過越の食事となった。年に一度の特別の食事がイエスの最後の食事となった。そしてそれはイエスと12弟子との食事だった。そこには弟子たちが12人そろっていた。そこにはイエスを裏切るユダもいた。ユダはその時すでにイエスを裏切ることを決意していた、と聖書は語っている。その機会を待っていたということか。
イエスはどんな気持ちでそこにいたのか。食事の最中に、この中に自分を裏切るものがいる、とイエス自身が語っている。イエスにはユダが裏切ることが分かっていたということのようだ。
どうして裏切ろうとしているユダといっしょに食事をするのか。食事の前に指摘すればよかったのではないのか。裏切り者とわざわざ食事をしてもおいしくないのではないか、と思う。気の合う仲間だけで食事をした方が断然うまいと思う。ひとり変な奴が混じっているだけでその場の雰囲気も変わってしまい、食事もまずくなる。裏切り者はさっさと追い出しといて、大事な食事を気分良く、また厳粛に食べたいと思わなかったのだろうか。
裏切り
キリストの弟子は12人で、その内のひとりがキリストを裏切った、12人足す1、つまり13は、だから縁起の悪い数字である、なんてことを聞いたことがある。今日は13日だけれど、イエスが十字架につけられたのが金曜日だから、13日の金曜日は不吉な日である、なんてことをいう人がいて、それは割りと有名な話しのようだ。
それで裏切り者の名前がユダだというのも世間一般にも知られているようだ。ユダというのは裏切り者の代名詞、になっているみたい。ユダとはイエスを裏切った悪い弟子というイメージがあると思う、だから何でこの最後の晩餐の席にユダもいっしょにいるのかと思うわけだ。
でもユダだけを悪者扱いしてしまって本当にいいのか。実は他の弟子たちも、みんなイエスを捨てて逃げてしまった、と書かれている。裏切ったのはユダだけではない。いやユダだけは後で悔い改めてイエスに従わなかったから悪いのだ、ということも聞いたことがある。でも本当にそんなに簡単に言ってしまっていいのだろうかと思う。
兎に角、イエスは裏切ると分かっている者と一緒に最後の食事をしたのだろうか。イエスは、あえてユダを食事の時に同席させたような気がする。わざわざ食事の時になってから裏切りの話を始めている。ユダをあえて食事の席に着かせたようだ。その場に引きずっていった、と言った感じがする。
イエスは自分からユダを捨てることをしなかった。逆に最後の食事にまでユダを自分の弟子として接した。たとえ自分を裏切ろうとしていても、自分の命を売ろうとしていてもユダを捨てなかった、ということなのではないかと思う
そしてみんながそろっている食事の時に、パンを裂いて、「これはわたしの体である」と言い、杯については、「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言った。
その後イエスはユダについて、この人は生まれなかった方がその者のために良かった、と言ったようだ。なんと残酷なことばだろうか、と思う。生まれなかった方が良かった、なんて言われたらまともに生きていけない気がする。
親からそんなことばを聞かされたために、いつも不安で、荒れた人生を送っていく人がいることを聞いたことがある。生まれなかった方が良かった、なんてのはとつてもなく重いことばだ、何でイエスはそんなことを言ったのか。
しかしここの言い方は、親が子どもに向かっておまえは生まれなかった方が良かったと言う言い方とこことは少し違う。親がそういう場合には自分にとって、おまえなんかいなかった方が良かった、と言う言い方になる。おまえなんか生まれなかった方が、私の人生はうまくいったのよ、ということになる。おまえがいたから私は迷惑しているんだ、ということになる。
しかしイエスは生まれかなった方が自分は都合が良かった、とは言っていない。生まれなかった方が、その者のために、本人のために良かった、と言っている。親が腹を立てて子どもを叱りとばすのとは違う。しかし生まれなかった方がその者のために良かった、とはどういうことか。
裏切ってしまったという重荷を背負うのはあまりにもつらいことだから、それならいっそ生まれなかった方が良かったと言うことなのだろうか。
やっぱりよく分からない。
まさかわたしでは?
一緒に食事をしているものの中に、イエスを裏切るものがいると聞いて、弟子たちは皆、まさかわたしでは、と言い始めた。まさかわたしのことでは。まさかわたしのあのことでは、まさか、私の心の中にある不信仰のことでは、ということか。
まさか、と言う時、それはもしかしたら私のことかもしれない、と弟子たちはみんな思ったのだろう。大なり小なりみんな思い当たる節があったということだろう。
そういう弟子たちとイエスは過ぎ越しの食事をする。最後の食事をする。弟子たちを抱え込んで、引きずり込んで行く。イエスは彼らを神の国まで引きずり込んでいっている。生まれなかった方がそのもののために良かった者もひっくるめて引きずり込んでいく。神の国とはそういうところではないかと思う。イエスに引っ張られていくところが神の国なのだと思う。立派な信仰心を持つ者、立派な行いをした者が、それを認められて許可をもらって行くところではないのだろう。ただイエスに招かれ、イエスに手をつかまれて、引っ張られて行くところが神の国なのだろう。
裏切り者と共に
もしこの食事の席にユダがいないとすれば私たちは不安だらけで生きていなければいけないように思う。ユダが追い出されていたとすれば、そこは落伍者が存在することになる。私がユダになるかもしれない、いつのけ者にされるかもれいないと言う不安を持たないといけなくなる。
しかし、ユダもそこにいたのだ。12弟子はひとりも欠けていない。全員をイエスは引っ張っていったのだ。
間違いもある、欠けもある、裏切ることだってある、そんな私たちを丸ごと抱え込んで招いてくれているところ、私たちの神の国はそんなところなのだろうと思う。